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フラニーやんけ

ライ麦畑でつかまえて』で一躍脚光を浴びたアメリカの作家、J・D・サリンジャーは、当代随一のハイソな雑誌「ニューヨーカー」にて、高額な原稿料と自由で広い紙面、そして親身な編集長を味方につけ、当時の文壇で随一の勢いを誇っていた。50年代半ば、『フラニー』そして『ゾーイー』の二編の連作小説を発表した頃のことだ。
 特に後者の『ゾーイー』は、原語にして三万語を越える中編小説で(翻訳は文庫で200ページ近くある)、これをひとつの雑誌で発表するのは相当無茶な行為だったと思う。だが行為の無謀さに反して評判はすこぶる良く、『ゾーイー』は今に至るまでサリンジャーの最も主要な作品と見なされている。

 余計なこと書きすぎた。『フラニー』『ゾーイー』のメモだ。

 『ゾーイー』の前日譚、『フラニー』の冒頭において、少女フラニーは悩みを抱えている。周囲を取り巻く腐った世界に思春期にありがちな憤りを覚えているのだ。
「何よあいつら!」って……。このフラニーは大学で演劇部に所属しているのだが、実はそこで繰り広げられる競争に嫌気が差しちゃったのだ。競争は嫌い、張り合うのは嫌い。何故なら、フラニーは綺麗な世界に住んでいたいのだ。もううんざり。
 しかしながら、問題はそれだけではなかった。競争したくないフラニーなのに、自分も競争してしまうのです。自分が思うような人間になれない、理想に対して誠実になれない。この矛盾がフラニーを苦しめる。
 どうして人間は張り合おうとするの? 自分を大きく見せようとする人間のエゴには吐き気がする。そして――何より嫌なことに、自分もそうした人間の一人なのだ。無欲になりたい、とフラニーは願う。それが『フラニー』の土台となっています。

 『フラニー』の作者――J・D・サリンジャー――は、作風として、非常に賢い子どもを書いたことで知られています。特に彼の描いたグラース兄妹は大人顔負けの知性を誇り、実は『フラニー』のフラニー・グラースも例外ではない。だから、「無欲になりたい」という悩みを解決するにあたって、フラニーがとった方法はきわめて非凡でした。この人は自身の悩みを宗教と関連付けるのです。

 無欲になりたいフラニーは最終的に、「巡礼の道」というキリスト教の本(現実に存在するらしい)、この中に記されていた、真の信仰、キリスト教的な無私と寛容の精神を実現する方法を実践します。その方法とはこうだ。 
イエス・キリストの名前を唱えつづける」

 キリストを唱えつづける……半世紀前とはいえ、ニューヨークの女子大生としてどうなんでしょう。ちょっと洗脳っぽくて怖いけど。
 実はこの行為に関しては『ゾーイー』の前半でバラされている通り、サリンジャーキリスト教ではなく東洋哲学から着想を得たようです。
 インド古来のジャパムのようなアプローチをキリスト教に移し換え、我々日本人が「南無阿弥陀仏」と唱えるように、フラニーは「主イエス・キリスト、われに憐れみを垂れたまえ」と繰り返し、無私と寛容の精神を手にしようとする。そんなアプローチです。

 ともかくフラニーはキリストを連呼することによって自信を回復し、とある週末、彼氏とのデートに出かけます。この彼氏はかなりの高学歴。言葉の端々から自信が見て取れる。意識高い系という言葉は徐々に死語になりつつあるけど、ちゃんと頭もいい。そして優しい。そんな大学生です。
 そんな彼も、今のフラニーにとってはやっぱりエゴの塊でしかない。彼にイライラさせられて、自分を制御できなくなり、心中の悩みを吐露してしまう。私さいきん演劇部やめちゃったの。だってあいつらギラギラしてついていけないし、私までギラギラしちゃうんだもの。もううんざり。悲しいかな、悩みは彼に理解してもらえず流されてしまう。彼氏がフラニーをどう思ってるかというのもあるけれど、悩みがレア過ぎるのも一因だと思う。ますますイライラを募らせるフラニー。鎮まれ、静まれわたし。無私と寛容の精神よ。イエスさまが私についてるもの。
 フラニーの祈りむなしく、物語のラストでついに彼女は失神してしまう。デートは台無し。彼氏との溝は深まる。信仰はかくも無力であった。
 担ぎ込まれてベッドに寝かされ、なおもフラニーは唱え続ける。イエスさま、イエスさま、イエスさま。声なき言葉は語り始める。いつまでも、ずっと。

 大変に簡略化したけれど以上が『フラニー』の概要です。後日譚の『ゾーイー』ではフラニーの救済が語られます。

フラニーとズーイ (新潮文庫)

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フラニーとゾーイー (新潮文庫)

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