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大工よ、屋根の梁を高く上げよ

 短編『フラニー』そして中編『ゾーイー』、50年代半ばに発表されたこの著名な連作は、作者の著作の中でもとくに有名で、両者の間に発表された別のグラース家の物語がしばしば霞んでしまうように思える。短編『大工よ、屋根の梁を高く上げよ(Raise High the Roof Beam, Carpenter)』だ。1955年発表、長兄シーモアの結婚式に際しての一日が描かれる。
 
 陰が薄いからつまらない作品かというとそうでもなく、むしろ数あるグラース・サーガ中で最も展開が動く楽しい短編だ。ストーリーはこんな感じ。
 ことあるごとにその天才性を発揮するグラース兄弟、その長男シーモアは、今回も内なる精神のはたらきに唆されて自分が出るはずだった結婚式を欠席してしまう。残されたのは花嫁とその大量の親族、それに花嫁側と比較するとかなり少ない花婿の関係者たちだった。そしてこの物語は以上最後のグループの一人、シーモアの弟バディの手によって記録されることになる。
 ともかく華燭の典はぶち壊しになり中止、招待客を会場から移動させるための車が手配され、バディは怒り狂う花嫁の親族の一派と同乗することになる。肩身の狭い思いをしながら式場を後にするバディ。そして面倒ごとは簡単には終わらない。車に乗ったはいいものの、渋滞に巻き込まれ、行き先もろくに定まらない。花嫁の親族たちは車内でシーモアをこれでもかとばかりにこき下ろす。その当人の弟であるバディは当然反論もできず針の筵である。
 
 楽しい話でしょう?僕はそう思う。
 
 この短編はシーモアの才覚というより、シーモアと世間の乖離、そしてそのズレに振り回されるバディの苦労を描いていて、僕はむしろ『ゾーイー』なんかよりもよほどグラース家の絆を感じさせられて好きである。もっとも、この作品は単なるコメディのままでは終わらない。特にシーモアと世間の感覚の乖離は物語の終盤でかなり衝撃的な形をもって読者に呈示されるのだが、グラース兄弟はそんな困難を乗り越えてなお彼らの不安定な導き手たるシーモアを支える決意をみせている。この絆はもはや家族にしか通用しないものなのだろう。もしくは、バディの後ろの席に座った聾者のみせたような何か――。彼の残した吸い殻を白紙とともにシーモアに捧げるバディの行為は、シーモアに対する理解が無尽蔵の器を必要とすることの裏返しでもある。
 
 タイトルの話をしよう。タイトルの『大工よ、屋根の梁を高く上げよ』は、作中でシーモアとバディの妹ブーブーが自宅の鏡に書き記したメッセージから来ている。
 
 大工よ、屋根の梁を高く上げよ。アレスさながらに、丈高き男の子にまさりて高き花婿来たる。先のパラダイス放送株式会社専属作家アーヴィング・サッフォより、愛を込めて。汝の麗しきミュリエルと何卒、何卒、何卒おしあわせに。これは命令である。予はこのブロックに住むなんびとよりも上位にある者なり

 

 このメッセージの前半は、古代ギリシャの女流詩人、サッフォの婚礼を祝う詩*1から引用された。「偉大な花婿が来た!」と、一見兄の結婚を手放しに喜ぶ文章にも読めるけれど、花婿の親族サイドが書く文章として少し不自然ではないだろうか。特に、最後の「何卒、何卒――。」の部分には陽気な前半と異なる不思議な、それでいて何か祈るような切実な思いが読み取れる。

 サリンジャーがサッフォを引用した意図は何だろう。おそらくそれがこの短編を理解する最大の鍵だ。結婚を手放しに祝福する古代の詩句に、サリンジャーは明らかに別の意図を組み込んでいる。

 

 余談だけど、引用に本来と違う意味を含ませてタイトルにするのはヘミングウェイ*2が『日はまた昇る』『武器よさらば』で使っていた手法でもある。

 

大工よ、屋根の梁を高く上げよ/シーモア-序章 (新潮文庫)

 

 

 

大工よ、屋根の梁を高く上げよ/シーモア-序章 (新潮文庫)

 

 

 

 

*1:Fr91 "EPITHALAMIA, BRIDAL SONGS" http://www.classicpersuasion.org/pw/sappho/sape08.htm

原文はもちろんギリシャ語。サリンジャーが引用したのはソース元にもあるH. T. Whartonの英訳

*2:サリンジャーヘミングウェイを嫌っていたことで有名だったりする