野菜生活

新鮮お野菜王国のマーチ

私は職を失った。ウクライナの真実を伝える仕事を。(翻訳)

By Elena Kostyuchenko

戦争が始まった夜は、激しい夢の中にいるようでした。その時、私はタバコを吹かそうとキッチンにいたのです。一緒に暮らしている友人が、キエフが爆撃されていると言い出したので、「誰が?」と彼女に聞き返しました。

私はモスクワのノーヴァヤ・ガゼータ(ロシアで最も名高い独立系新聞)で働いています。早めにオフィスに着いたところ、既に全員が揃っていました。朝のミーティングで、同僚のイリヤアザールと私がウクライナに向かうことになりました。私の任務は南方の前線、つまりヘルソン、マリウポリ、ムィコラーイウ、オデーサについて書くことでした。

イリヤは陸路を選びましたが、国境でFSB(ロシアの秘密警察)に追い払われ、その後に老婆からハチミツを盗んだ門でロシアの地元警察に拘束されました。空路でウクライナに入ることも不可能でした。既に空港が爆撃され、旅客機の受け入れが止まっていたのです。モルドバへのチケットを手配しましたが、出立の準備をしていた矢先に空路が閉鎖されました。私はポーランドに行くことを決めました。ワルシャワに着いた私は、この戦争がいかに大規模で、国際的な関心を集めているかを知りました。私は2015年と2016年にドンバスにいて、同じ本物の戦争を取材しましたが――周囲の国への影響はまるでなかったのです。

ウクライナに入った時、私は一文無しになっていました。空にいる間に、制裁は私の銀行にまで及んでいたのです。携帯には全く電波が入りません。ウクライナがロシアの携帯電話をブロックしたからです。私は2人のウクライナ人男性に出会いました。彼らは妻子を国境に置いて、戦うために家に戻るところでした。2人にバッグとヘルメット、防弾ベストを調達してもらい、私たち3人は次の街までの25kmを夜通し歩きました。そこから、私は車でリヴィウに向かいました。


I thought that I had a lot of time. I don’t let myself make that mistake any more

何ひとつ現実の出来事とは思えませんでした。心理学者が現実感喪失(derealisation)と呼ぶ感覚で、実際にあったことをそれと感じられなくなるのです。初めての経験でした。戦争が始まってしばらくの間は、長々とした悪夢のようだったのです。悪夢を見ている時、この上なく恐ろしく、耐えがたい瞬間が来て、目を覚まさなければならないことがあるでしょう? 私はその時を待っていました。

リヴィウから最初の報告をしたため、電車でオデーサへと向かいました。親ロシア派が多い場所と聞いていましたが、そんな様子は全くありませんでした。オデーサ出身のジャーナリスト、タイエシャ・ネイデンコが言っていたように、爆撃が始まれば一切が明白になるのです。私は嵐の前夜の様子を記録するつもりでした――誰もが嵐が来ると考えていましたから。しかしこの嵐は船上の嵐で、他の混乱が起こる余地などなかったのです。

オデーサの記事を書き上げている時、編集者から連絡が入りました。「急がないと、サイトに記事を載せられないわ」 彼女は続けて、「法律が新しくなったのよ」。聞けば、ロシア国防省と矛盾する情報を発表したものは、最大で15年間を刑務所で過ごさなければならなくなるそうです。そして彼女は私に、もうウクライナの件は扱っていない、と告げました。

「どういうこと? 扱ってないって?」

「法律を見たでしょう? どうやって報じろというのよ」

「刑務所に入っても構わない」と伝えたら、こう返されました。「条文を読みなさいよ。あなたが収監されるだけじゃないの。あなたに関わった人が大勢逮捕されるのよ」 確認したところ、彼女の言うことが事実だと分かりました。記事に関わった人すべてが連行されるのです。校正者、編集者、デザイナー、会計士、人事部も、全員が。編集者は私に、とっとと記事を書き上げるよう告げました。法律が施行される真夜中までに記事を載せて、そのあと撤回できるように。

私の記事に加えられた変更は、戦争という言葉が「特別軍事作戦」に置き換えられたくらいでした。編集部は緊急ミーティングを開き、オンラインで支援者たち(私たちに寄付してくれる読者たちのことです)の決議を取ることにしました。ノーヴァヤは発行を止めるべきか、それとも検閲を受けつつ活動を続けるべきか? 90%以上の人が、続けるべきと回答しました。

私はヤロスラブリ(モスクワから300kmほど東にある街です)の貧困家庭に生まれました。働き始めたのは9歳の時で、床掃除の仕事をしていたんです。高校生の頃、地方紙の職業訓練で、記事を一本書くごとにお金が貰えると耳にしました。フロア清掃よりも、執筆の方が素敵な気がしました。

ヤロスラブリの新聞社であるシヴィルニ・クライ(Severny Krai)で一年働いたのち、私はノーヴァヤ・ガゼータに出会いました。初めて買った号にはアンナ・ステパーノヴナ・ポリトコフスカヤ(ロシアのジャーナリスト・人権活動家。2006年に暗殺された)による、二度のチェチェン戦争の間に育った子どもたちの記事が載っていました。ある男の子はラジオで流れるロシアの歌を母親に聴かせまいとしており、何故ならロシア人が彼の父親を連れ去って、鼻の無い死体として送り返したからなのでした。記事を読んで感じた気持ちは言葉にできません。それまでにテレビや他の新聞を読んでいましたが、ノーヴァヤの記事は私がチェチェンについて知っていると思っていた全てと異なっていました。学校の図書館にはノーヴァヤ・ガゼータが無かったので、バックナンバーの山を読むために地元図書館へ行く必要がありました。ロシアに広がる汚職がいかに巨大なものであるか、私は知りませんでした。人々が拷問を受けていることも。


ノーヴァヤ・ガゼータは1993年に、日刊紙のコムソモリスカヤ・プラウダを退職した記者たちによって設立されました。新聞は共同体に属しており、その所有者はオリガルヒでも政府要人でもジャーナリストでもありません。編集長は投票で選ばれます。編集会議も運営会議も投票で決まります。内規もすべて投票によって承認されます。そのため、私たちをコントロールするのは不可能であり、検閲もありません。その結果、非常に優秀なジャーナリストたちが質の高い報道を行っています。私は少女だった頃にこのことに気が付いて、ただ座ってひたすらに記事を読み耽っていました。そして、ノーヴァヤ・ガゼータに記事を書きたいと思うようになったのです。

 

Two nights in a row, I saw a van with an antenna parked outside the place I was staying. I moved

その時、私は17歳でした。最寄りの編集部はモスクワでしたが、引っ越すお金は持っていません。そこで、モスクワの大学を受験することにしたんです。寮に住むことができれば、いずれノーヴァヤで働けるはずです。モスクワ大学は名前を聞いたことがある程度でしたが、入学できました。寮費は年間500ルーブル(5ドルほどでしょうか?)*1。最初に、まともな服と携帯電話を買うために色々と雑用をしました。まとまったお金ができると、身なりを良くして電話を買い、ノーヴァヤにインターンを申し込みました。

オフィスで最初に見た人は、アンナ・ポリトコフスカヤでした。その時は彼女だと分からず、白髪でかなり背の高い、何やら凄そうな女性が早足で私の方に歩いてくると思いました。採用された後に彼女と話したかったのですが、私はシャイだったので、彼女のオフィスに忍び込んでリンゴを置いていました。するとある時、彼女に見つかって、親しげな口調で「こんにちは、リンゴを置いているのはあなたなの?」と話しかけられたのです。私は本当に恐怖してしまい、「はい!」と答えて逃げ出しました。私が採用されたのは2006年の4月でしたが、同じ年の10月に彼女は殺されました。

私はひそかに思い描いていました。いつか実力をつけて、優秀なジャーナリストになったら、彼女のもとに行って、こう言いたかったのです。「アンナ・ステパーノヴナ、ありがとう。この仕事を選んだのはあなたのおかげよ。あなたは私のヒーロー、どんなにお礼を言っても足りないわ」 しかし、すぐに彼女は殺されました。私はミスを犯したのです。時間はたっぷりあると思っていました。同じ間違いを繰り返したくはありません。


ノーヴァヤで働き始めるまで、私は自分がレズビアンだと知りませんでした。自覚するのに長い時間が掛かったのです。2011年の「なぜ私がゲイ・プライド・パレードに行くのか」*2という記事で、自分のことをカミングアウトしました。そしてガールフレンドとパレードに行ったところ、「ロシア正教の活動家」を自称する男にひどく殴打されてしまいました。頭を強く殴られて、あやうく聴覚を失いかけたのです。編集長のドミトリー・ムラトフは病院に見舞いに来て、「新聞は君のことを守るし、治療費も負担する」と言ってくれました。さらに、彼は私の代わりに声明を出してくれたのです。ロシアのメディアがLGBTの従業員を支持する声明を出すのは、きわめて異例のことでした。後にも先にもあんなことはありません。

 

最初に、私は犯罪事件とモスクワの市政について執筆していました。その後、取材のために各地を訪れるようになりました。カザフスタンのジャナオゼンで、ストライキを起こした油田労働者たちが虐殺された事件*3をいち早く報じました。プッシー・ライオット*4の記事を書きました。私は彼女たちを報じた最初のジャーナリストの一人です(メンバーの女性に要望されたのです)。2014年に起こった最初のウクライナ侵攻で、ロシア軍の関与を証明しました*5。ロシア政府は当時、いかなる軍隊も派遣していないと主張していました。

開戦時に私が派遣された理由は、戦場、それもウクライナで働いた経験があったからです。さらに、私が女性だったからでもあります。戦争の取材にあたっては、男性よりも女性の方が容易いのです。警戒されないし、怖がられることもありません。男性が行けないような場所にも行けます。

ノーヴァヤ・ガゼータのガイドラインでは、戦地で一度に二週間以上働いてはいけないことになっています。疲労が貯まると間違いを犯しやすくなるし、安全について誤った感覚を持つようになるからです。「今までに殺されていないのだから、今後も殺されないだろう」と思い込んでしまいます。結局、32日間頑張ることになりました。軍の検閲を受けながらです。全面的な干渉を受けて、仕事は台無しになりました。

ウクライナ南部のムィコラーイウに着いたとき、街はロシア軍に半ば包囲されていました。ずっと砲撃を受けていたのです。知事の発表によると、ロシア人たちが孤児院に出勤中の女性たちを撃ったそうです。詳細は不明でしたが、その後、ボランティアたちの本部で、生き延びた女性たちと運転手を車で拾ったという男性に偶然出会いました。一緒にいた人々の内、3人が殺されたそうです。彼女たちは最寄りの検問所まで歩き、そこで私が会った男性に拾われたのでした。彼が運転手の携帯番号を教えてくれたので、私は事件の全体について書くことができました。

2つ目の大きな記事は、地方検視官の事務所へ取材したものです。そこでは、戦争犠牲者の遺体が調べられていたのです。冷蔵室がいっぱいなので、遺体が小屋にも積まれていました。私は2人の姉妹に気が付きました。ひとりは3歳で、もうひとりは17歳。姉妹の写真を撮りました。年少の妹が、姉の体の上に載せられていました。すると、私たちを案内してくれた用務員が、姉妹をじっと見つめているのに気が付きました。その視線に何か個人的なものを感じたので、「この子たちを知っているの?」と尋ねると、「自分は彼女たちの後見人なんだ」との答えが返ってきました。

 

Our deputy editor had been abducted and severed sheep heads left in front of our offices

取材に出ているときは、感情をオフにします。スイッチを入れるのは、記事を書くときです。感情を殺して書けば、読者には何も感じられないし、理解もされません。その後、再び感情のスイッチを切ります。このやり方は、20年以上かけて自らに教えてきたものです。健康的ではありませんが、ウクライナのような現場で仕事ができるのは、このおかげです。

ムィコラーイウで、私たちは検閲が行われたときに読者が気付くことのできる仕組みを発明しました。考えたのは私です。編集者の一人が検閲官の役割を強いられるとしましょう。彼は、危険であるかもしれない言葉を赤でマークします。実際に言葉が消されると、それを < . . . > で括ります。削除した箇所が重要である場合は、括弧の中にさらに言葉を入れたり、イタリック体で婉曲的な説明を補ったりします。ただの”war”であってもマークが入ります。以上のようなルールに従う他は、法律が無かった以前と同じように記事を書いていました。

ヘルソンに着いたとき、爆撃や空襲はなかったものの、(ロシアに占領された)街には人の姿がありませんでした。ロシア兵たちは、活動家、ジャーナリスト、ボランティアを拉致していました。彼らはドンバスで戦ったことのある人を、ウクライナの秘密警察よろしく探し回っていたのです。かなりの用心が必要でした。小さなアンテナを装備したバンが二晩連続で宿の外に停まっているのを見て、私は宿を変えました。

かつて拘置所として使われていた建物の中に、秘密の刑務所があるのが分かりました。へルソンで誘拐された44人の名前を調べ、彼らが失踪したときの状況を記録しました。ジャーナリストのオレグ・バトゥールィン*6や、ロシア兵に拷問された沢山の人々に話を聞きました。

 

滞在は2日間の予定でしたが、3日目に通るはずだった道で戦闘が発生したため、脱出できなくなりました。翌日に、別の道から脱出を試みました。検問所を2つ通りましたが、3つ目の地点で、もしここを通れば、次の検問所で軍隊が私たちを撃つだろう、と告げられました。向かってくる車をすべて撃つよう命令されていると言うのです。私たちは引き返して、代わりに近くの村を通ろうとしましたが、地元の人に地雷が埋まっていると言われ、さらに別の道を試しました。ある時点になって、私たちは通行を拒絶された検問所の周りを通っていかざるを得なくなりました。後ろから撃たれるかもと思いましたが、そうはなりませんでした。

へルソンからマリウポリに向かいました。移動中、他のメディアで働く仲間からメッセージが届きました。「大変だろうが、頑張って。きっと何もかも良くなるから。心配しないで」この時、ノーヴァヤ・ガゼータの休刊を知りました。少なくとも、戦争が終わるまでの。

非常に動揺しました。ここ数年の間に起こったことを思えば、奇妙に聞こえるかもしれません。6人のジャーナリストが殺され、うち4人は私の在職中に亡くなっています。副編集長は拉致され、オフィスの前には羊の頭が置かれました。所属する記者は絶え間ない攻撃を受けており、国外に逃がしたり匿ったりして未然に防いだ件はさらに多くあります。政府は常にノーヴァヤの閉鎖を試みてきたし、私たちを外国のエージェントに仕立て上げようともしました。その全てを生き延びてきたのです。たとえ他の全員の口が塞がれようとも、私たちは打ち勝つだろうとすら考えていました。


If I go back, they’ll probably put me in jail. I need a few months to finish up what I want to do, to finish my book
車内で音楽が流れる中、私たちはマリウポリへ向かいました。古くロマンティックなソビエト時代の曲です。思わず泣いてしまわないか心配になりました。美しく、晴れ渡った春の一日でした。私たちは国全体を束ねる全国紙の一員として、最善を尽くしてきました。新聞の読者は実に多岐にわたります。地方の教師たち、シベリアに住むエベンキ族の猟師、大統領府の役人たち、議員、消防士、医師、そしてプーチン本人でさえも。実際に彼は私たちの購読者の一人なのです。私は彼らをずっと顧客のように考えてきました。彼らのために働いているのですから。今までずっと、彼らが私の存在する意味であり、目的だったのです。それを失うのは痛ましいことでした。無防備になった心地がしました。

私の記事は早々に撤回されるようになりました。最終号が出た翌日、検閲機関と検察庁より、ムィコラーイウから送った私の記事を削除するよう特別な圧力が掛かりました。その夜には、さらに指令が届きました。「へルソンからの記事も取り下げろ」。曰く、「この情報資料には、ロシア政府がウクライナで行っている特別軍事作戦の評判を貶める目的がある」とのことです。私に対する直接的な脅しだったのです。思わず涙が出てきました。1日だけ泣く時間を作ろうと決めて、その後はもう泣くことはありません。ただ、マリウポリにも行けずじまいでした。

ウクライナにいる間は、空襲に備えて服を着たまま寝ていました。でもウクライナを去ってから、私はもっと寝付けなくなりました。空爆を受けて避難する悪夢を見るんです。マリウポリの役人として30000人の子どもたちを避難させねばならない立場になった、非常に生々しい夢も見ました。その男になり替わって重大な決断を下しながら、内心では泣き叫んでいたのを覚えています。

ポーランドに戻ったとき、私はフェイスブックにメッセージを投稿し、ロシアに帰るつもりだと書きました。私はロシアが好きです。プーチンが愛する以上に愛しています。でも帰ったら、たぶん牢屋に入れられるでしょう。だからあと数か月、私のやりたいことを終えるための時間、本を書くための時間が必要です。そのあとで、私は帰ります。今、私にはすべてがはっきりと見えていて、残された時間はわずかしかありません。ひとまず脇に置いておく猶予などないのです。

As told to and translated by Bela Shayevich, a writer in Iowa

 

☟原文はこちら☟

www.economist.com

 

訳した人間による追記

Elena Kostyuchenko(読み方が分かりませんでした・・)は、ロシアでは名の知られたジャーナリストだそうです。Wikipedia英語版には彼女のページが存在します。

en.wikipedia.org

Kostyuchenkoによる取材記事は開戦後に取り下げられましたが、ネットには修正前のものが公開されています。

holod.media

記事に書かれている以外にも、体を張った調査報道をする人物のようです。

snob.ru

記事の終わりで触れられている本が発売されたら、読んでみようと思います。たぶん英語には翻訳されると思うので。

なお、訳した人間はロシア語が一切読めないため、ロシア語のリンク先を厳密に確認したわけではありません。勘違いなどあればご一報ください。

 

*1:流石にそんなに安くはありません(まだ)

*2:彼女のブログ記事は以下のURLです。1万を越えるコメントが付いたそうです

Почему я сегодня иду на гей-парад - Искренность — LiveJournal

*3:ジャナオゼン虐殺

Zhanaozen massacre - Wikipedia

*4:プッシー・ライオット - Wikipedia

今回の戦争を機に、メンバーの多くが国外に脱出したそうです

*5:以下のニュースを指しているのかな?と思います。リンク先の画像に注意

«Мы все знали, на что идем и что может быть» Интервью с российским танкистом, который вместе со своим батальоном был командирован сражаться за Дебальцево

*6:国境なき記者団(RSF)によると、Oleg Baturinはへルソンでロシア兵に拉致された後、8日間拘束され拷問を受けたそうです

Ukrainian journalists kidnapped by Russian troops in occupied areas : NPR