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『さよなら絵梨』のねじが回転する

「ねじをもう一回転させる(Give the effect another turn of screw)」はとある大昔のホラー小説に登場する言い回しで、「物語をさらに複雑化させる」ことを指している*1

"I quite agree—in regard to Griffin's ghost, or whatever it was—that its appearing first to the little boy, at so tender an age, adds a particular touch. But it's not the first occurrence of its charming kind that I know to have involved a child. If the child gives the effect another turn of the screw, what do you say to two children———?"

 

(「同感だよ。先程グリフィンの話に出てきた幽霊みたいな奴は、まず真っ先に幼い子どもの前に現れたのがちょっと面白いね。でも、子供が絡んだ可愛らしい幽霊話はこれが初めてじゃない。子どもが出てくるお話のねじをさらに一回転させたら、たとえば子どもが二人いたら――?」)

 

ヘンリー・ジェイムズ『ねじの回転』

 

 

これは作品を読む上で必須の知識ではないが、映画や小説を読み終わって首をかしげたとき、結末に居心地の悪さをおぼえるとき、無意味に複雑で冗長な細部が意識のどこかに引っかかったとき、それでいて作品にどこか魅力を感じたのならば、次のような言葉にどことなく共感することがあるかもしれない。

 

Literature was not born the day when a boy crying “wolf, wolf” came running out of the Neanderthal valley with a big gray wolf at his heels; literature was born on the day when a boy came crying “wolf, wolf” and there was no wolf behind him.

 

(文学は「オオカミがでた!」と叫ぶ少年が、灰色のオオカミに追いかけられてネアンデルタールの谷間から飛び出してきた日に生まれたのではありません。文学は、「オオカミがでた!」と、少年が背後にオオカミなど居やしないのに叫んだ、その日に生まれたのです。)

 

ウラジーミル・ナボコフ『良き読者と良き作家』


本が好きな人であっても、ある物語がなぜ優れているのか――あるいは、なぜ面白いのかを語るとき、確信を込めて話す人は多くない。明確な理由はあったりなかったりするのだろうが、多くの人は通常、自身の印象を普遍的な体験として表現することを避ける。自分と他者は異なる存在で、他人の手になる文章の真意など分かるべくもないから、きっとそれは正当な態度なのだと思う。上記のナボコフの言葉も、彼の真意が置かれた正確な地点の座標を考えることは難しい*2。しかしそれでも珍しいことに、彼は自らが考える小説の定義を直截的に、やや遠回しな言い方をもって明らかにしている。

 

つまり、「オオカミが出た!」という事実を語るだけでは小説にならない。それは日記や報告や歴史になることはあっても、小説にはならない。なるかもしれない――そのように書かれた小説を知っているという人もいるだろう*3。しかし、ナボコフの発言をやや強引に解釈すれば、彼が重視するものは記述と内容の乖離だ。それを「Aという記述によってBの内容を表現する」ことで物語は生まれる、と理解するなら、

 

For sale: baby shoes, never worn.

 

売ります。赤ん坊の靴。未使用

 

これも定義上は正真正銘の物語となる。

閑話休題。物語はB(解釈)からA(記述)へと変化させられた表現形式であり、読者の目的はBの解釈を明らかにすることだ。いや、まあ明らかにしなくてもよいのだけど、あえて否定してみせたところで状況に大差はない。物語の意味を問う営みは、古来より世界の至る場所で行われてきた。いまさら多少の例外を付け加えたところで、The exceptions prove the rule――巻かれたねじはそのままに、解くことなしに見破ることはあたわず。

 

まとめよう。物語一般には先天的にねじが巻かれている。ねじを見つけて外すのは読者の役目だ。見つけ方と外し方は読者の自由である。ねじをどれほど回すかは、作者次第。

たまにねじを巻きすぎる作者がいて、その代表例として冒頭で取り上げたのがヘンリー・ジェイムズ『ねじの回転』でした。

 

『さよなら絵梨』の物語

『さよなら絵梨』のページを最初に開いて現れるストーリーそのものは、取り立てて目を惹くものでもない。

 

母親の入院をきっかけに、優太はスマホのカメラで家族の日常を撮り始める。母の死後、撮り溜めたビデオを編集し、映像作品として発表するためだ。しかし、ふざけた演出(爆発オチ)を入れたために作品は酷評される。塞ぎ込む優太だったが、難病で余命いくばくもない同級生の絵梨と出会い、優太の作品に理解を示した彼女に、自分の死ぬ姿を撮って欲しいと頼まれ――。

 

(言い忘れたけれど、以下にネタバレが入るので読んでいない人は気をつけてね)

 

その後、優太は絵梨の撮影を進めつつ、物語のさまざまな伏線を回収していく。そもそも、なぜ優太は撮影を始めたのか? 理由は母親の意向によるものだ。TVプロデューサーだった母親は、自分の闘病生活をドキュメンタリーに仕立てようと目論んでいた。それを、なぜ爆発オチなどにしたのか? 彼は自分の母親の死と上手く向き合えなかったのだ。

 

そうした種々の困難を絵梨とともに乗り越えつつ、映像の制作は続いていく。そして絵梨の死後、爆発オチのない絵梨の感動的な闘病映像が学校で上映され、作品は好評を博す。それはまさに、かつて優太の母親が望んだような映像だったのだろう。観客は感極まり、絵梨の友人には好意的な感想を貰い、めでたしめでたし、となり――。

 

ここまで見た限り、『さよなら絵梨』の表層的なストーリーにはあまり見るべきところがないと思う。この後に少しだけ続くラストを別にすれば、この物語は成長して身近な人間の感動ドキュメントを撮れるようになった中学生の話でしかない。もちろん、世の中に陳腐な物語は溢れていて、人間の文化の少なくない面積を占めているけれど、『さよなら絵梨』は面白みのない作品が完成した事実を過程なり背景を理由に肯定したりしないだろう*4

なぜなら、『さよなら絵梨』の物語のねじが、ここで大きく回転するからだ。

 

『さよなら絵梨』の作中には「爆発オチ」が出てくる。筋書きに不条理さを与える演出だ。主人公の優太は、単なる闘病ドキュメンタリーに相応しくない爆発オチを付け加える。

 

それを「非常識」だと思うのも、「母親の死を受け入れられなかったから」と理解するのも、あるいは単に「B級映画に惹かれているから」だと考えるのも、すべては解釈であり、読者の役目だろう。しかし、実はここにひとつ、あまり争いのない点がある。優太はねじを巻く側の人間なのだ。そして絵梨の映像は、上映会が終わった後にさらなる編集を受け、凡庸だったはずの作中作と物語のねじはさらに締め付けられる。

 

歳を取った優太の前に、あの頃の同じ姿で現れた絵梨。自らを寿命を持たない吸血鬼だと語る彼女は、優太の撮った映像を今も繰り返し眺めると言い、次のように告げる。

 

「見るたびに貴方に会える――私が何度貴方を忘れても、何度でもまた思い出す」

 

藤本タツキ『さよなら絵梨』P192

 

新たな展開だ。単なるドキュメンタリーだと思っていた作品は、実は本当に不死の少女を撮っており、彼女は永遠の中でいつまでも在りし日の主人公を見つめている。記憶を失い続ける吸血鬼のあえかな恋心こそ、『さよなら絵梨』の本当の物語だったのだ!

――という表層的な解釈を、実は本作はあまり許していない。最後一コマの爆発オチは、ラストシーンがフィクションとして作られていることを読者に示してもいる。

 

では、あり得そうな解釈Bとは何だろう。作中で映像制作が進行している点に着目すると、実際の絵梨は吸血鬼などではない可能性が出てくる。つまり、映像は難病で亡くなった少女による生前の演技であり、優太役を演じているのは優太の父親かもしれない。ここでは父親の俳優経験が伏線となっている。

 

「吸血鬼が居た!」と言いながら、本当は吸血鬼などいなくて、でも実は存在してて、やっぱり居なくて――しかし病に斃れたはずの少女は、映画の中で永遠の命を吹き込まれ、高らかに勝利を宣言する。じっさい、物語のねじをやっとこさ外してみせたとき、絵梨は本当に生きた存在として私たちの前に現れるのかもしれない。彼女は今も物語の中の部屋に陣取り、優太と一緒につくった作品を、お気に入りの映画たちとともに時折眺めているのだ。

*1:諸説ある

*2:一応ナボコフの意図を捻じ曲げたりはしていないと思う

*3:たとえばルーセルロクス・ソルス』やレム『完全な真空』にどのような解釈が成立するのかを自分はあまり知らない

*4:もちろん作品は筋書きだけで成り立つものではないし、優太が怒られたり独白したり絵梨と絆を深める細部が無ければせっかくの構成も魅力が半減するのだけど、ここではそういう突っ込みは無かったことにしてほしい