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存在しない命の価値とは?(翻訳)

How do you value a life not yet lived?

 

1852年のこと。コーサ戦争*1に向けて部隊を輸送していた軽巡洋艦バーケンヘッド号*2は、現在の南アフリカ近海で岩礁と激突した。兵士たちは速やかに船尾に集まり、乗り合わせた女性と子供たちは舷に置かれた小舟に乗り込んで安全を確保した。440人以上の男が命を落とし、溺れたり、潰されたり、サメに食われたりした。

 

女性と子供を最初に助ける定めは、バーケンヘッド・ドリルの名で知られるようになった。この精神はタイタニック号の事故においても出現し、海の不文律として称賛された。当時の多くの人間にとって、その根拠は自明のように思われた。ある記者は女性と子供が「より無力」であると記した。タイタニック号では一人の着飾った女性が自らを「スカートの中の囚人」だと語り、助け無しには救命ボートに飛び乗ることもできないと嘆いた。

 

しかし、この手順が正当化されるより深い理由は「社会の未来を守るため」だと考える人々もいる。タイタニック号の生存者の内、幾人かは子供を残している。マドレーヌ・アスター(Madeleine Astor)は再婚した後、二人の息子を新しい夫との間に設けた(その内の一人は自らを「とても幸運な男」と称し、母親の幸運が彼自身のものでもあったと考えている)。リー・アクス(Leah Aks)は後に娘と二人目の息子を産んだ。彼女のひ孫はフルート奏者になり、テネシー大学でタイタニック号について教えるクラスも担当している。氷の海から700人以上の命を救ったタイタニック号の救命ボートは、ある意味で、生存者たちがその後に残した命さえも無の深淵から救い出したのである。

 

The questions posed by population ethics range from the intimate to the cosmic

 

救出された時点で存在しなかったが、救出されなければ存在しなかった命。こうした命の価値をどう見積もるべきか、哲学者たちや少数の経済学者の間で議論が進んでいる。イギリスの哲学者デレク・パーフィット(Derek Parfit)が70年代に創始した「人口倫理(population ethics)」という分野である。経済学者たちは、経済政策や規制が人々の暮らしに与える影響を日々問うている。しかし、政策が単に人々に恩恵や厄災をもたらすだけではなく、人口そのものを増やし、対象の人々の数やアイデンティティを変化させることがある。そのような場合、学者は政策がある場合とない場合とで単純に人々を比較するわけにはいかない。政策が実施されたグループは、されていないグループとは異なる集団になっているからだ。

 

人口倫理が提起する問題は、身近なものから宇宙的規模に至るテーマまで多岐にわたる。夫婦は子供を持つべきか? その不妊治療の費用は政府が負担すべきか? 人類は他の惑星に進出し、地球の制約を超えて勢力と寿命を拡大すべきか? 気候変動が突きつける政策が人間の活動を制限するならば、最も痛みの少ない地点はどこか。プリンストン大学のノア・スコーブロニク(Noah Scovronick)らは、2017年の論文で気温上昇を産業革命以前より2℃以内に留めるためのコストを算出した。人口が97億人に達する2050年には、排出量の年次抑制にかかるコストは一人あたり481ドルに達する。

人口がもっと少ない87億人の場合、年次コストは471ドルに下がる。二番目の選択肢はより安価で、より多くの人々が存在するのは最初の方だ。両者をどのように比較すべきか?

 

決断を下すために、さらなる具体的な詳細を求めるアナリストもいるだろう。もっと少ない人口ならばどうなる? たとえば、リプロダクティブ・ライツ(生殖に関する権利)を尊重しつつ、そのような状況を実現することはできるだろうか? しかし、彼らは別の哲学的難問にも答えねばならない。一方のシナリオ上に存在し、もう一方には存在しない10億人の人々をどう考えるべきか?

 

タイタニック号の公的な事故調査報告は、その経費に関わらず、もっと多くの救命ボートを搭載すべきだったと結論付けた。同様の計算が経済学の分野でも日々行われており、交通事故をはじめとするケースで、社会がリスクを減じるためにどの程度費用を掛けるべきか見積もっている。これらの試算は、人命をドルに換算することを避けていない。

 

あるいは、きわめて危険な業務に従事する人々が要求する特別手当の額から価値を推定できるかもしれない。しかし、誰かの命を守ることがその人たちの子孫の命をも救うということを、この種の計算が認めることは稀といっていいほどだ。
しかし、例外とはそこに規則が存在する証でもある。1981年、オーストラリアの国際応用システム分析研究所に勤めていたW・ブライアン・アーサー(W. Brian Arthur)は、様々な死が社会に与えるコストの違いを比較した。

 

それらしい推定によれば、誰かの命を交通事故から助けるのは、癌から助けることに比べて2.5~4倍ほど価値が高い。事故の犠牲者はより若く、人生に残された時間も多い傾向にあるため、その分だけ子孫を残す見込みも増えるわけである。癌で死ぬ人々が100人いたとすれば、追加で失われる子供の人数の期待値は2人ほどだ。これが交通事故ならば、失われる子供の人数はおよそ32人となる。

 

生まれてくる人間の数に政府が影響を与える方法は、若者を不慮の死から救うことだけではない。産児制限、育児休暇、子育て支援制度といった政策は、出生率に直接的な影響を与える。その他の多くの政策も、間接的ないしは思いもよらない影響を与えることがある。

 

たとえば、住宅価格の高騰は若年層が新たに家庭を築くことを難しくする。また、出費が嵩めば、小さな家族が規模を拡大することも阻んでしまう。ある研究によると、仮にヨーロッパで失業率が10パーセント上昇すると、女性100人あたりの子供の数は9人減少するという。女子教育の向上は妊娠出産を遅らせる。また、女性が雇用されやすくなれば、子育てのために家に居ることがより大きな経済的犠牲を伴う可能性もある。中国では、Covid-19との長い戦いが、結婚や出生数の低下をもたらした。研究者たちは、経済的な見通しと、ロックダウン中の家庭を管理することへの不安が原因だと述べている。大規模な経済政策は概ね、事実上の人口政策でもある。子どもを設けるかもしれない人々の将来の見通しを形作るからだ。


For what it’s worth

これらは実際的な問いであると同時に、哲学的な疑問をも引き起こす。難破船や交通事故から人々を助ける費用を決めるとき、被害者たちの潜在的な子孫の数を計算に含めるべきだろうか? もし政府の決定のために生まれてこない人々がいるなら――住宅価格を引き上げるような開発規制の厳格化、社会不安や失業率を加速させる金利政策、キューピッドの矢を矢筒に封じ込めるようなロックダウン政策など――そうした選択のために生まれてこない人々の不存在は、政策の決定に影響を及ぼすべきだろうか?



一般的な答えは、ノーである。潜在的な子孫の命が「誰かの命を助ける理由になったことはない」と、オックスフォード大学の倫理学者であるジョン・ブルームは述べる。子孫たちの命は、それが政策の目的である時ですら考慮されないことがある。英国の臨床ガイドラインは、中絶費用の公費支出を正当化する根拠に母親の利益を挙げている。だが、その結果失われるであろう子供の命は考慮していない。同様の慎ましさは、人口への影響がはるかに巨大な政策においても見られる。たとえば気候変動は、人々の生き方や住む場所を一変させるだろうし、おそらくその全てが未来の人口動態に影響を与えるだろう。だが、「気候変動の脅威を長々と説く書物の中で、人口に及ぼす影響を取り上げたものは、肯定・否定のいずれの論調においても見たことがない」とブルーム氏は2001年に書いている(彼はその後、気候変動に関する政府間パネルIPCC)で活躍した)。



ブルーム氏によれば、この手の沈黙の理由は明白である。「これらの評価を行う人々は、人口の変化それ自体は善でも悪でもないと見做している。自らを倫理的に中立だと見なしているのだ」。政策立案者は、もちろん過剰な(あるいは過小な)人口が全体に及ぼす影響を心配している。人口過剰がもたらす環境への負荷や、人口減少がもたらす財政難を心配している。しかし、人々の多くは人口の変化それ自体には中立の態度でいる。たとえ10億人もの追加人口が地球を過密にしたり大気を詰まらせないとしても、人々の多くはそのような一群の存在を善とも悪とも考えないのだ。

 

このような態度は普遍的かつ便利であり、しばしば説得力を持つ。1973年、カナダの哲学者であるジャン・ナーブソン(Jan Narveson)は、この直観を的確に表現してみせた。「私たちは人々を幸せにするのを好むが、幸せな人々を作り出すことには中立だ」

 

直観に支えられた中立性というテーマがおそらく最も興味を引くのは、家庭が子どもを持つかどうかの決断に適用されたときだ。その決定は、他の多くの人々、特に誰かの親となる人々にも無関係ではないだろう。それはさておき、夫婦の決断は世界を良くするのか、それとも悪くするのか? そのどちらでもない、とナーブソン氏は主張する。結果として、「子どもを作れたのに作らなかったのは、不道徳でもなければ、博愛精神の不足でもない」。氏の主張は正しい。たとえ、生まれたはずの子どもが幸福な人生を送ったとしても。

 

生まれてこなかった子供は何かを失っている、と反論するかもしれない。彼らが送ったであろう人生よりも、存在しなかったことの方がなお悪い、と。だが、それは形而上学的な誤謬に過ぎない、とブルーム氏は指摘する。彼らが存在しなかったならば、貶められる「彼ら」など存在しないからだ。
この議論は現代哲学に特有のものではない。共和制ローマの詩人であったルクレティウスは、2千年前に同様の結論に達していた。

 

一体何を失ったのか? 我々が誕生を知らなければ
(中略)
希望を噛み締めたことのない者、
生まれなかった者、心なき者は、欠乏を覚えることもない*3

 

この直観は詩的な魅力を持つだけでなく、政治的にも都合がよい。政策立案者とアナリストは、道路事情の改善や、住宅価格の値下げや、ロックダウンの切り上げといった施策によって生じたはずの人々を重視せず、あるいは考慮に入れる必要すらない。100人の若いドライバーを救うことで生まれたかもしれない32人の子供が、道路予算の算出に影響することはない。不妊治療の結果生まれるかもしれない子供は、その費用と便益の計算に含まれない。任意の決定が無ければ存在しなかった人々は、その決定自体を左右することができない。

 

Making happy unicorns is a matter of moral indifference only as long as someone is doing it

 

このような直観に惹かれたブルーム氏は、著書『命を量る(Weighing Lives)』を準備するにあたって、それを裏付けるべくあらゆる哲学的議論を検討した。しかし、彼は最終的に「真に遺憾な結論として」これを「放棄せざるを得なくなった」。他の多くの哲学者も同様の結論に到達している。彼以前にはパーフィットもそうだったし、最も最近の例では、2022年に『私たちが未来に負っているもの(What We Owe the Future)』の著者として知られるようになったウィリアム・マカスキル(William MacAskill)もいる。彼の著書には、中立的直観から離れていく思索の辿る似たような過程が記録されている。

 

過程にはいくつかの段階がある。中立性に対する明白な異議のひとつは、絶滅の恐れだ。ある一組の夫婦が子どもを持たないのは善でも悪でもない。しかし、全ての夫婦がそんな選択をすれば、大惨事である。最近のニューヨーカー誌に、ノアの方舟を題材にした風刺画が掲載されていた。サルやゾウ、キリンのつがいに囲まれる中で、一匹のユニコーンが片割れに「子どもが欲しくないんだ」と告げるのだ。ユニコーンの幸せを願うのが倫理的無関心(moral indifference)の範疇に収まるのは、誰かが代わりにそれをやってくれる限りにおいてだ。


Never was I ever

中立性原則の批判者たちは、その無様な非対称性を指摘している。原則が幸福な人々に適用されることはあっても、恐ろしく不幸な人々に対して用いられることはない。パーフィットは「可哀相な」子供について思考を巡らせた。「彼の生涯は、無よりもなお悪いほど苦しめられる」。そのような子どもに命を与えるのは良くないことかもしれない、とNarveson氏も認めている。

 

だが、このことは倫理的なジレンマを引き起こす。子どもを設ける人は皆、倫理的な賭けに出ている。彼らは幸せな子どもを生むことを願っている。しかし、子どもは稀な先天性疾患や、後天性の事故や病気によって恐ろしい目に遭う可能性がある。つまり、倫理的に中立な目的のために、道義上よろしくない(morally regrettable)事態を招くリスクを負うことになるのだ。

 

「可哀相でない」命に適用した時でさえ、直観的中立性は論理的な困難を引き起こす。潜在的な人口に重きを置かないことで、その規模や程度による違いを互いに比較することが難しくなるのだ。倫理的な尺度は、その全ての集団に「中立」の判断を下す。規模の大小や、享受する幸福の程度に関わらず。

 

マカスキル氏は著書の中で、子どもを生むか決めかねている未来の母親について想像を巡らせている。彼女は一時的なビタミン欠乏状態にあり、いますぐに妊娠すれば、子どもは将来頭痛に悩まされる。彼女が待てば、子どもはそうならない。
倫理的な尺度は、偏頭痛に時折見舞われる幸福な子どもを作り出すことに対して中立である。そして偏頭痛に無縁な子どもを作ることについても、同じく中立だ。どちらかの選択がより直観的に良いものであろうと、倫理的には同一の判定が下る。いずれのシナリオも、子どものいない現状と意義ある区別をすることができず、シナリオ同士を互いに比較することも不可能だ。

 

この種の困難さのために、パーフィットやブルームのような哲学者たちは、潜在的な人々の価値を量るために、その道義的な根拠や実用的な手法を熱心に模索した。パーフィットは、存在することは一個人にとって不存在よりも良いと断言することに慎重だった(そもそも不存在なら、一個人にあたるものが実在しないのだ)。しかし、仮に人間の存在を生み出すことが他の選択肢に比べて「より善でない」場合であっても、その選択肢は依然として「善」であるかもしれない、とパーフィットは著書『理由と人間(Reasons and Persons)』の中で述べている。彼は哲学者のトマス・ネーゲル(Thomas Nagel)を引用した。「私たち全員は・・・幸運にも生まれてきた。しかし、生まれなかったことが不幸とは言えない」

 

人間存在を生み出すことが(生まれてくる人々にとって)善であるならば、それを倫理的尺度の中に位置づけることができる。マカスキル氏の思考実験に登場した母親は、妊娠することで子どもに益をもたらす。彼女が待つならば、母親はより多くの益を頭痛のない子どものために積み上げるだろう。頭痛持ちの、より早く生まれる子どもに与えられた益よりも多くの。

 

哲学者たちが「没個性的観点(impersonal view)」と呼ぶものも適用できる。未来を順位付けするにあたり、意思決定者はある世界を別の世界よりも上位のものと見なすだろう。たとえ双方の世界の住人にとって、もう一方の世界が住みよいものではなかったとしても。マカスキル氏の例に登場した子どもたちは、どちらも価値ある生を享受している。自分の存在しない別の世界よりは、今の世界で存在している方が幸福である。

 

没個性的に俯瞰する場合、その存在が単なる可能性に過ぎない人々であれど、現在または未来に実在する人々同様に評価されねばならないだろう。潜在的な人々の集団をこのように扱うことは、構成員全員に厳しい示唆をもたらすかもしれない。(十分に)幸福な人間を一人加えることで世界がより善くなるならば、それ以外の人々の一部が犠牲を払ったとしても、その人を迎え入れる価値があるかもしれない。人口が多くて貧しい世界の方が、人口の少ない世界より道徳的に好ましいこともあり得る。97億人の人々が二酸化炭素排出量を抑えるために毎年481ドルずつ支払う世界の方が、より少数の人々がより少額を払う世界より善いかもしれないのだ。

 

既に窮屈感が漂いつつある地球において、明らかに歓迎される考えではない。しかし、同様の哲学的論理は急進的な環境保護対策においても成り立つ。たとえば、これ以上ないほど不安定な環境になった地球を想像してみよう。あまりに危険な状況なので、現在の地球で汚染を減らせば減らすほど、未来の子孫たちはその分だけ長く生きることができる。私たちが不自由な暮らしを受け入れることは、子孫たちの世代をもうひとつ伸ばし、種全体の寿命を延長することに繋がるのだ。我々の子どもたちも同じく窮屈な規制を受け入れるなら、子孫の世代もさらに追加される。さらに、子供たちの子供たちにも同じことがいえる。時間を超えて広がる生命の量を増やすために、生活の質を落とすのが人としてあるべき姿かもしれない。

 

問題は、どこに線を引くかだ。この理屈だと、幸福の大半が奪われたような暮らしであっても、十分に個体数が多ければ正当化されるかもしれない。前時代的な世界であれ、より多くの人々が生を享受できるのなら、快適な暮らしよりも善いといえるかどうか。私たちは結論を迫られる可能性がある。

 

以上はパーフィットが「忌まわしい結論(repugnant conclusion)*4」と呼んだものの一例だ。パーフィットは人々が辛うじて生きるに値するような世界を想像してみた(彼はこのような世界での暮らしを「ミューザックとポテト*5」と形容している)。しかし人口が十分に大きい場合(哲学的な思考実験において、人口サイズの限界を決めるのは哲学者の想像力だけである)、そのような世界は、より小規模ながら豊かで幸福な他の世界よりも、道徳的に好ましいことになる。

 

こんな結論はとても受け入れがたい。この問題はパーフィットの残りの生涯を悩ませ続けたし、未来研究所*6のグスタフ・アレニウス(Gustaf Arrhenius)によると、「現代倫理学の主要な課題」でもあるという。未だに直観的中立性を支持する哲学者がいる理由の一端も、このためだ。

 

ブルーム氏は、基準を適切に調整し、人生のボーダーラインを変更することで問題を回避できると考えている。パーフィットは、人間が辛うじて生きていけるだけの暮らしを生きるに値する人生のボーダーラインとして設定した。ブルーム氏の考えでは、没個性的な観点からみて、新たな世界に参加するだけの価値があるかどうかを基準にすべきだという。「ミューザックとポテト」の暮らしが善い世界とかけ離れた、忌まわしい代物ならば、定義されたラインを下回ることになる。そうすれば、より幸福な潜在的個体だけが、正しく調整された基準の下でプラスの価値を得ることになる。


The sum of all fears

しかし、この修正で不愉快な結論を撥ねつけたとしても、別の厄介な疑問が持ち上がる。アレニウス氏が指摘したように、地獄のような暮らしを送る世界の方が、それより多くの人々がブルーム氏の基準をわずかに下回る生活を送るような世界よりも好ましいことも起こり得る*7。実のところ、「忌まわしい結論」とその派生を避けて進むことは非常に難しい。これは倫理学の様々な分野で、様々な形を取って現れる。別の角度から見ると、パーフィットの問題は、「多くの人々をわずかに助けるか、少数の人々を大幅に助けるか」という見知ったジレンマに変化する、とテキサス大学オースティン校のディーン・スピアーズ(Dean Spears)と彼の共著者たちは指摘する。

 

道徳的な計算において、上限が明らかでないままに、人々や幸福、苦痛といったものを足し合わせると、「忌まわしい結論」のようなものが生じることがある。ジョージ・メイソン大学のタイラー・コーウェン(Tyler Cowen)は、「忌まわしい結論」を「パスカルの賭け*8」に喩えている。もし天国が無限に美しく幸福で満ちているなら、人間は天国に入る目をほんの僅かでも上げるために、おおよそ全てを犠牲にしなくてはならない。これもまた、忌まわしい思考だ。パーフィットの想像する人口規模に上限が無いのと同様、天上のよろこびにも上限がないために問題が生じるのだ。

 

The fear of large populations of low-quality lives has overshadowed the field of population ethics

 

「忌まわしい結論」とその仲間は色んな場所に顔を出すので、感覚が麻痺してしまうかもしれない。しかし、スピアーズ氏とラトガース大学のマーク・ブドルフソンは、これを解放の始まりとみている。「忌まわしい結論が不可避のものなら、いっそ避けるべきではないのです」。理論が現実のケースと符合していれば、たとえ無限の人口を持つ架空の人々を扱う想像上のシナリオにおいて直観に反する結果が出てきたとしても、理論そのものを投げ出す必要はないだろう。

 

2021年、スピアーズ氏とブドルフソン氏は他の27人の研究者たち(本記事で言及された大半が名を連ねている)とともに、短い論文を出版した。この論文は「忌まわしい結論」を解決しようとする代わりに、その無力化を目指したものだった。冒頭には彼らの共通認識が掲げられ、「忌まわしい結論」は従来思われていたほど致命的ではない、と書かれている。「人口倫理に対する任意のアプローチが忌まわしい結論を引き起こすとしても、そのアプローチが適切だと結論付けるには十分でない」。劣悪な日々を送る膨大な人間という恐怖が、人口倫理の分野に暗い影を落としている。通例ないほど大勢の明晰な著者たちが、それを晴らしてくれるだろう。■


この記事は印刷版のクリスマス特別企画に、「造られなかったすべての人は平等である」の題で掲載されました。

 

👇元記事👇

www.economist.com

*1:コーサ戦争

Xhosa Wars - Wikipedia

*2:軽巡洋艦バーケンヘッド

HMS Birkenhead (1845) - Wikipedia

*3:出典はルクレティウス『物の本質について』

*4:"repugnant conclusion"の邦訳には幾つか異同があり、近年は主に「反直観的な結論」「直観に反する結論」と訳されているようです。ただ、直観に反するから排除すべきという文脈は個人的にしっくりこず、また元の記事ではevilに近い意味合いで使われている上にcounterintuitiveとの使い分けもされているので、当記事内では「忌まわしい結論」としています。折衷案として「受け入れがたい結論」なども考えましたが、一応分かりやすさを優先しました。

*5:ミューザック(muzak)とは、飲食店や小売店でBGMとして流れている音楽のことです。有線放送のような娯楽とジャガイモのような食べ物しかない暮らしを表現した言葉ですが、受け取る人によって印象が変わりそうな気もしました。

*6:the Institute for Futures Studies

*7:「忌まわしい結論」を回避する試みとその反論について、本記事で紹介された例はほんの一部であり、たとえばBroomeの説を推し進めると「サディスティックな結論」と呼ばれる状況が登場します。こちらも「忌まわしい結論」のように人口倫理において回避すべき課題とされてきました。込み入った話なので元記事では割愛されていますが、概観は以下のページに詳しく載っています。

plato.stanford.edu

*8:パスカルの賭け - Wikipedia