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小舟でアラスカに逃れたロシアの徴兵拒否者

ウクライナでの戦いから逃れるため、セルゲイとマクシムは軍の哨戒を躱して嵐に立ち向かった。

 

風が勢いを増すごとに、セルゲイとマクシムは海の様子を神経質に眺めやった。シベリア沿岸の故郷を離れ、小さな船外機ひとつで動くマクシムの狭い釣り船でベーリング海の横断を始めてから5日が経っている。航海は死と隣り合わせだった。移り気な嵐と凍えつく冷気で知られるベーリング海は、世界で最も危険な水域のひとつだ。2人はロシア最東端に位置するチュクチ(Chukotka)自治管区の沿岸(とても遠いので世界地図ではたびたび省略されている*1)に降下した。嵐に向かって果敢に漕ぎ出し、軍国化著しいロシアの探知からどうにか逃れようとしたのだ。いま、彼らは300マイルにわたる航海の輝かしい終わりに近づいていた。アラスカまでたったの20マイルだ。

 

ふと、遠くを見やったセルゲイは心臓が止まりそうになった。巨大な白波のうねり*2が目に入ったのだ。携帯電話の天気アプリを見ると、彼らはまさに暴風の中に突っ込んでいくところだった。数日前に遭遇したものと同じ嵐で、その時は急いで岸まで戻り、天候が穏やかになるまでの3日間を神経を尖らせながら過ごしたのだ*3。いま、ロシアからの脱出を急ぐ彼らは、迂闊にも因縁の相手に捕まってしまった。マクシムのボートは全長16フィート(訳注:5メートル弱)の薄い船体で、船を浸水、もしくは転覆させかねない怪物相手に勝ち目は無かった。

 

Sergei didn’t answer the knock at the door. He already knew who it was. The Russian military was conscripting men to serve in Ukraine.

 

波が船殻を叩きはじめ、海水がセルゲイが降り注ぎ、船は縦横に揺れ出した。岸に戻るなら決断の時だったが、この時はそのまま嵐に突入した。「引き返すことなど考えもしなかった」とセルゲイは言った。彼はひと月前、既に単独での横断を試みており、激しい風に押し戻されていた。彼もマクシムも再度のチャンスが無いことを分かっていた。2人は選択を迫られた――ロシア軍に投降して慈悲を乞うか、まっすぐ突っ込むか。そして嵐を選んだ。

 

遡ること8日前の9月26日、セルゲイの自宅扉がけたたましくノックされた。扉の向こうに誰がいるのか分かっていたので、応答しなかった。極東ロシアの港町、エグべキノト(Egvekinot)に住む男たちはみんな、過去数日間に同じノックの音を聞いていた。ロシア政府は男たちを対ウクライナの戦争に徴兵している。大きなヘイゼルの瞳と濃い眉を持つ痩身のセルゲイは、その一員になりたくなかった。ノックの音が止み、外階段の足音が去ってから窓の外を見ると、グリーンの軍服に身を包んだ男女が車に乗り込むところだった。内心を恐怖が這い回った。(2人は家族への制裁を恐れているため、苗字を明かしていない)

 

友人のマクシムに電話を掛けて、今から来れないか頼んだ。理由は説明しなかった――話し合いは電話越しでない方が安全だ。だがマクシムは察していた。彼も同じノックの音を早朝に聞いていたのだ。覗き穴から同じグリーンの軍服を目にし、そして応答しなかった。

 

セルゲイとマクシムは10代の頃からの知り合いだ。2人の仲はロシアへの不信感によって幾年も支えられている。どちらもウクライナでの戦争は無意味で邪なものだと考えており、軽蔑する政府のために戦うなど思いもよらないことだった。到着したマクシムに、セルゲイはとてつもない提案をした。マクシムの釣り船で、ベーリング海を渡ってアラスカに逃げよう、と。

 

既にセルゲイは警察の厄介になっていた。マクシムは薄い黒髪と、頬にはにきびの痕が残るシャイな男で、政治的立場を公言することはないが、セルゲイは違った。エグべキノトに住む3000人は皆、セルゲイがどういう思想の持ち主なのかを知っていた。彼は自前の運送会社を経営するトラック運転手で、都市住民に荷を運び、国家の汚職を追及していた。道路予算の横領を巡って政府機関を非難した。そしてロシアがウクライナに侵攻したとき、彼は教師や司書を捕まえて――プロパガンダの拡散を公務として担う人々だ――どうして戦争を正当化するのかを問いただした。そして自らの見解を聞かせた。ウラジーミル・プーチンは、ウクライナを征服することでいっそう権力基盤を固めたがっている、と。

 

They took precautions. Most people in their town believed state propaganda, and would be “delighted to catch you out, to brand you a traitor, an enemy”

 

昨年の6月、警察当局は彼を聴取することに決めた。セルゲイは連行され、留め置かれた2日間のあいだ、活動について尋問され、プーチンの敵で現在収監中のアレクセイ・ナヴァルニーとの関係を問い質された(彼は取材に対して繋がりは皆無だと答えた)。8月に入ると、KGBの後継機関として治安維持を担うFSBがセルゲイを過激派として拘束し、無許可でエグべキノトを離れることを禁じた。セルゲイが脱出の決意を固めたのは、その時だった。彼は動員令の前にも一度ヨットでの横断を試み、強風に押し戻された。そしてノックの音が脳裏に鳴り響く中で、再びトライしようと決意した。マクシムは同行を了承した。彼の見立てでも、ウクライナで死ぬかアメリカに逃げるかしかなかった。「選択の余地はなかった」と彼は述べる。

 

つづく3日間は準備に費やされた。目的地は300マイル以上先、アラスカ本土の西に位置するセントローレンス島だ。マクシムは小さなボートを無鉄砲な航海に向けて準備した。必要な品を準備した――パン、ソーセージ、卵、紅茶、コーヒー、ビスケット、タバコの箱、そして燃料。必要な用事を済ませ、所持品を手放し、そしてルーブルをドルに換えられなかったので、友人や親類に蓄えを譲渡した。

 

セルゲイは再びドアが叩かれないか耳をそばだてていた。彼はとあるやりとりのことを気に病んでいた。万が一、全てが露見してしまったらどうしよう。2人は計画を誰にも漏らさないと決めたが、遠く離れたシベリアのオムスクに住むセルゲイの娘の一人だけには伝えたのだ。この街の住民の大半はプロパガンダを信じている、とセルゲイは言う。「他人を喜んで陥れて、売国奴や敵の烙印を押すだろう」

 

慌ただしい日々の間、夜になるとセルゲイは強いビールをたらふく飲んでいた。インタビューの際、セルゲイは顔をひっぱたいてその効き目を表現していた。一晩で15本も空けたのは、人生で初めてだったという。商店主は彼の太っ腹ぶりに感謝していた。そして9月29日の午後4時に、2人はマクシムのボートに乗って出航した。

 

片方が操縦するあいだ、もう片方は見張り役を担った。シベリアの臀部にぶら下がる、チュクチ半島の沿岸を進んでいく。当初の光景は穏やかなものだった。ここは2人がかつて育ち、マクシムがほぼ毎日釣りをしている海なのだ。シャチ、セイウチ、クジラがたくさんいる。日が落ちると上陸し、最初の夜をマクシムの親類と過ごした。2日目の夜はセルゲイの知人たちと。そして野外でテントを広げた。どこへ行くのか尋ねられると、2人は決まって同じ話を喋った。死んだセイウチを探しているんだよ。牙を採って売るためにね。船に戻ると、2人はほとんど会話をしなかった。「ただ考えていたんだ。どうか捕まることなく逃げられたら、とね」とセルゲイは話す。

 

2人が特に心配したのは旅の後半のことだった。チュクチ半島は高度に要塞化されている。2人の航路は国境警備隊が結集する街を横切らねばならない。用心のため、電波が拾われないよう携帯電話の電源を切った。しかし、旅が何らの邪魔も受けないまま進んでいく内に、2人は当局が何の注意も払っていないような印象を抱き始めた。セルゲイは、お偉方はひょっとすると誰かがここを横切る可能性など夢にも思わなかったのだろう、と考えている。

 

Maxim stocked his small boat with provisions and fuel. The two men wound down their affairs, gave away their possessions and set off for America.

 

そして嵐の場面に戻る。セルゲイは船内への浸水に気がついた。船底ポンプがひっきりなしに唸りを上げる。それから、ボートは2つの水の壁の間に投げ出された。セルゲイは目を閉じて、述懐を続けた。「ここに居るべきじゃない。人間が来てよい場所ではない」。乗組員マクシムの優れた手腕でどうにか最悪の嵐を迂回して、2人は生き延びた。

 

数時間後、嵐の海域を通り越して、2人はアメリカの海を渡っていた。旅の終わりに、ようやく得た休息の時だった。インタビューを受けたセルゲイは、身の毛もよだつような体験の記憶を皮肉な冗談で誤魔化していた。でも、とうとうセントローレンス島を目にしたくだりに話が及ぶと、体が一瞬硬直し、我に返ってすばやく涙を拭いた。アメリカの印象を尋ねると、「法が機能している自由な国だ」と語った。

 

2人がガンベル(Gambell)の街に上陸すると、数十人が集まってきてじろじろとよそ者を眺めた。住民たちはまず、2人が迷彩服を着ていたのを見て、ロシア兵ではないかと考えた。2人はグーグル翻訳を介して説明し、自分たちが政治的難民だと話すと、群衆の態度は暖かいものに変わった。「ようこそアメリカへ」。ピザとジュースを配り、「君たちはもう安全だ」

 

2人の平穏は長続きしなかった。ガンベルの警察当局がやってきて、2人を拘留せねばならないと言ったのだ。翌日、移民・関税執行局(Immigration and Customs Enforcement)が2人の身柄を移送し、アラスカ最大の都市であるアンカレッジの牢に入れた。そこで2晩過ごしたあと、今度はワシントン州タコマにある拘置所に入った。「奴らはタバコすら勧めてこなかった」とセルゲイは語る。

 

アンカレッジでは、アラスカ州上院議員であるリーサ・マーカウスキーが2人のもとを訪れた。マクシムによると、議員は2人に「少しばかり忍耐が必要だ」と告げたそうだ。アメリカは迫害から逃れてきた人間を保護する条約を結んでいる*4。しかし、近年は「保護する(shelter)」という語が実に狭い意味で解釈されている。亡命希望者の多くはまず拘禁されるのだ。そのまま数ヶ月、ひどい時には数年出てこられない人もいる。セルゲイとマクシムにその説明をした者は誰もいなかった。「”少しばかり”の意味するところが分かりませんでしたよ」とマクシムは語る。

 

Using Google Translate, they explained they were seeking political asylum.” Welcome to America”, the crowd responded. You’re safe now”

 

つづく数ヶ月を2人は他の70人の抑留者たちと共に大部屋で過ごした。来る日も来る日もライスとビーンズを食べ、ロシア語で書かれた本は手に入る限りなんでも読んだ。月に2回、司書が新しい本を届けに来た。「ホリデーのようだったよ」とセルゲイは言う。ドストエフスキープーシキントルストイといった古典をむさぼるように読んだ。

 

抑留されて3ヶ月以上が過ぎた日、2人はともに保釈された。セルゲイは1月13日に出所し、マクシムはその5日後だった。タコマに住むウクライナ人司祭で、ウクライナとロシアから来た難民の世話をしている人物が、身柄引受人を買って出た。あるボランティアが2人に対するアメリカ政府の扱いを詫びると、2人は穏やかに彼の言葉を止めた。「ノープロブレム、大丈夫だ」とセルゲイは英語で返答した。彼はアメリカ政府が国境を渡ってくる人間を調べる必要性を認めている。しかし取材の終わり際に、彼は本心を明かした。「嫌な気持ちだったよ。こんなことが自分の身に起こるとは思わなかった」

 

2人は楽しく未来のことを思い描いている。「希望でいっぱいだよ」とセルゲイ。数ヶ月以内には働けるようになる。2人は当初、慣れ親しんだ北極気候のアンカレッジに行くことを考えていた。「俺たちは北に生きる人間だからな」これもセルゲイの言葉だ。だが根っからの経営者として、いまセルゲイは「需要と供給」のある場所ならどこにでも行くと語っている。勾留から解放されてたった5日しか経たないのに、彼はビジネスのアイデアを興奮気味に喋っていた。タコマに大量のプラスチックとアルミニウムが投棄されていることに気付いたので、リサイクルの事業を計画しているのだ。今のところ、マクシムの野望はそれよりも控えめだ。彼は自分の釣り船と再会したいそうである。■

Charlie McCannは1893マガジンで特集記事を担当しています。

 

訂正(1月24日):最初に配信された記事ではマクシムの船の全長を13フィートとし、またアンカレッジで2人に面会した上院議員をダン・サリバンだとしていました。実際の船の全長は16フィートであり、面会した上院議員はリーサ・マーカウスキーです。お詫びして訂正します。

 

👇原文👇

www.economist.com

 

訳した人間による追記

この2人のニュースは日本でもそれなりに報道されていたので、覚えている人も多いかもしれません。

自分もたまたま覚えていたのでそれなりに興味をもって読んだのですが、武勇伝が一足先にアメリカナイズされているようで面白かったです。すごい人はどこに居てもすごいですね。

ただ、ウクライナでは国民が一丸となって抵抗している様子が報道される中、ロシアからは大量の兵役拒否者の存在が伝えられていたりと、非対称戦争のもつ居心地の悪さのようなものを今後もそれとなく感じていくことになるのでしょうか。

*1:欧米で用いられる大西洋中心の世界地図では、シベリアが右上の端に来ます。

*2:海面を強風が吹くことで発生する白波(white cap)は嵐の指標にもなります。いつか越えなむ妹があたり見む。

*3:この2人の航路の大半は沿岸沿いなので、岸に戻ったといってもスタート地点からやり直したわけではないようです。

*4:難民の地位に関する1951年の条約 – UNHCR Japan