野菜生活

新鮮お野菜王国のマーチ

好きな短編小説7つ

 中学時代のある日のこと。歴史の教師が自らの好きな本について語ったひとことを、自分は今でも鮮明に覚えている。

「中学生の頃は、海外作家の短編集ばかり読んでいたんですよ」

「分かる!!」寡黙な教室の中でも一際寡黙な人間の中で内なる心はこう叫んだ。的確だ。ある人の読書遍歴を説明するのに、この短い一言は余りに雄弁でかつ普遍的であると思った。決して少なくない数の本好きがこの道を通るのだ。ぼくも例外ではなかった。

 どういうことか乱雑に説明しよう。ある種の人々はいつしか海外への憧れに目覚めるものである。その中でもさらに特別な人々は、海外に関わる諸々を何か知的なものと捉えるようになる。馴染みのない言語、見知らぬ文化、教科としての英語、あるいは国際人を育てる教育方針などなんでも良いが、そういったものが影響して自分の知的なアイデンティティを舶来の品々に仮託する精神が選ばれし人間のもとに芽生えるのだ。分かりやすくいえば厨二病の一種だ。

 さて、このような人間をあなたはどう思うだろうか。薄っぺらい? 少なくともぼくにはそんな感想は逆立ちしたって言えない。自分がそうだったから!!
 ここからは自分の話だ。自分の選んだ舶来ものは海外小説だった。ハリーポッターが好きだった自分にとってシンプルな帰結だった。でも初めは長編なんて読めなかったから短編をいっぱい読んでいた。

 短編集というものは便利で、本一冊を最後まで読めなくても楽しめる。一作一作が異なる人物、異なる世界、異なる結末を持っていて、物語はめまぐるしく入れ替わる。あたかも多様な人々が一冊の雑踏の中で交差する小さな大都会のようだ。そこにはカラマーゾフ一家の長々とした前史も、ナンタケットから船が出航するまでの顛末もなく、物語との別れも短い。でも幼かった自分は、ロンボーンやマコンドの片田舎にほとんど負けないくらい、短編小説の裏道や雑踏を脳裏に浮かべていたと思う。

 訳の分からないことを書いたが、つまり思春期というアイデンティティが形成される時期において、少しでも早く大人の世界に飛び込もうと足掻いた人間が手に取るのが海外の短編小説なのだ。少なくとも自分の場合はそうだった。くだんの歴史教師がそうであったかについては確認していない。違っていたらすまんな。

 前置きが長くなったが、短編小説は自分の読書遍歴の中で最も付き合いの長いフォーマットなのです。その経験の中で特に好きなものを7つ、ここに並べて色々と書いてみたいと思います。

 

 

遊戯の終わり(フリオ・コルタサル
 ボルヘスとともにラテンアメリカ最良の短編作家とされるのがコルタサルだ。『遊戯の終わり』はその彼の代表的な短編集であり、その掉尾を飾る表題作の名でもある。
 コルタサルボルヘスも、方向性こそ異なるものの、ある種の幻想的な作風で知られる作家だ。南米という括りを外しても、エンデ、カルヴィーノなどと共に両者を愛読する人間は多い。この短篇集にもそうした奇妙な話が数多く収録されていて、今なお多くの人間の支持を得ている。
 しかしながら、肝心の表題作である『遊戯の終わり』に幻想文学としての要素はほとんど無い。作中には異世界も非日常も登場せず、まったき日常を描いた短編となっている。コルタサルの幻想的な世界に惹かれて彼の本を読み進めた人間は、こうした作品に出会って当惑するかもしれない。優れたラテンアメリカ文学者である寺尾隆吉の『ラテンアメリカ文学入門』(中公新書)でも、この本の短編を日常的なものと非日常的なものとにはっきり区別して紹介している。
 その一方で、こうした違いがコルタサルという作家を分断して二面性を持たせているかというと、決してそんなことはない。この本の非日常的な作品は勿論、日常的な作品にしてもまた確かにコルタサルのものであって、どちらも同じ作家の手になる作品だと感じられる。要するに両者は何らかの共通項なり一貫性を持っている。少なくとも僕はそのように考えるが、ではその共通項とは何だろう?
 『遊戯の終わり』のストーリーはこうだ。三人の女の子がとある家に住んでいる。家の裏手には線路があって、電車が通るたび、彼女らは乗客に見える位置から、衣装や小道具を身に着けて様々なポーズをとる遊びをしている。乗客のひとりの男の子がその様子に惹かれ、走る電車から彼女らにメッセージを残す。異なる世界の住人同士のささやかな交流がはじまる。
 前述の寺尾隆吉は『遊戯の終わり』を「全くの日常的な作品」としているが、僕は舞台が日常にあっても作中にはコルタサル的で異常な要素が含まれていると思う。結論からいえば、それは両者の接点が鉄道であるという点だ。考えてもみて欲しい。眼前を猛スピードで走り抜ける鉄道! 駅や車内でもないのに、ふわふわした少年少女が出会えるもんなのか? たしかに日常の話だし物理的には可能なんだろうけど、でもここには抗いようのない圧倒的な「速度」の表現がある。そしてこの「速度」はコルタサルの他の作品、それも『夜、あおむけにされて』や『南部高速道路』などの非日常的な作品にも現れるものなのだ。速度こそはコルタサルを特徴付ける強力なモチーフの一つなのだ、と少なくとも僕は考えている。『遊戯の終わり』で運命的な出会いを果たした少年と少女たちだが、時の歯車は息つく暇もなく回転を続け、電車は来たときと同じようにただ去っていく。
 それにしても、青春はあっという間だって皆言うけれど、それをコルタサルほど端的に描いた作家が一体何人いるだろう?

 

遊戯の終わり (岩波文庫)

遊戯の終わり (岩波文庫)

 

 


死せるものたち(ジェイムズ・ジョイス
 完璧な作品に付け加えることなどない。既存の解説もこれ以上なく充実している。ぼくが今更書くべきことなど何もないし、そして何より、解説を読んでも読まなくてもこの作品は最高だと思う。
 短篇集『ダブリンの人びと』には新潮、岩波、ちくまの各文庫版がある。新潮の訳者はジョイス訳者として知名度がある柳瀬尚樹だが、この人はこの難解な短編集をろくに解説しないどころか、作品の背景の説明もほとんどしない。それはちょっと……という人は、ちくまと岩波の両文庫版には詳細な解説や作品ごとの解題があるのでそっちのがいいかも。ちなみに、この短篇集の成立に際してはそれなりに興味深い事情もある。
 あとこの作品ちょっと長くて、中編じゃね?などと突っ込まれてもいるけど、そんな枝葉末節に拘るのは人生の浪費なので気にしてはいけない。そもそも短編で通用すると思うけどなあ。

 

ダブリナーズ (新潮文庫)

ダブリナーズ (新潮文庫)

 

 


エズミに捧ぐ(J・D・サリンジャー
 著者は有名な『ライ麦畑でつかまえて』の作者だが、サリンジャーには『ライ麦』以外にも熱烈に支持されている小説があることを知っているだろうか。『フラニーとゾーイー』『ナイン・ストーリーズ』といった作品がそれで、『ライ麦』は青臭くて肌に合わないがこの2つは認めるという訳の分からない人も結構いる。僕もその一人だ。
 『エズミに捧ぐ』も短編集『ナイン・ストーリーズ』所収の作品である。ところでこの『ナイン・ストーリーズ』は実に素晴らしい一冊だ。村上春樹はこの本の短編で2つばかり気に入らないものがあるようだが、(具体的な作品名は明らかにしていないが想像はつく)あとの7つにはそれほど文句の付けようも無いはず。好みを差し引いても作品のレベルは明らかに高い。
 サリンジャーの短編にはある種の美学があり、読後の余韻が非常に重視されている。読めば分かるが、彼の短編は構成的に独自のセオリーを持っていて、かつサリンジャーはそうした変奏の類まれなる名手だった。彼の作家としての全盛期が長続きしなかったのが惜しまれる。
 さて、『エズミに捧ぐ』は『ナイン・ストーリーズ』の中でも非常にサリンジャーらしい作品だ。作中には彼の主要なテーマといわれる「イノセンス」が端的に表れていると言われる――まあこれはある程度サリンジャーを知っている人なら一読して分かることだが、『エズミに捧ぐ』はもう少しだけ奥深い。これはサリンジャーの変遷の過渡期にある作品なのだ。
 この小説の主人公は、命を吹き込まれた多感な少年ホールデン・コーンフィールドではない。東洋的な独覚を志向し、ついには読者の視線すら拒絶するグラース家の非現実的な神童たちでもない。舞台は第二次大戦、主人公はノルマンディー上陸作戦に参加する兵士の一人だ。執筆にあたってはサリンジャーの戦場体験が生かされ、内にこもりがちな人生を送った彼が、自身の社会的な経験をフィクションに昇華させた例外的な作品となっている。そして戦争後遺症を扱ったこの小説で、サリンジャーは虚構を許容しない当事者の立場と、容易に救済されないマイノリティの立場の双方を併せ持つことになり、そのために『エズミに捧ぐ』は作者に妥協を許さない作品となった。
 それがこの『エズミに捧ぐ』の素晴らしさだ。
 発表当時、反戦運動に湧き上がるアメリカで、この小説は一躍注目の的になった。さて、その熱狂的な受容から半世紀を経た現在、この小説の価値は失われただろうか? そんなことは……読んだ各々が判断すべきことだろう。戦争も、それに苦しむ人々もまだまだ絶えない。そして全ての人々が同情されることもありえない。この小説を読んだ人は言うかもしれない。「エズミなんてどこに存在するんだ? 全く非現実的じゃないか」確かにエズミなど存在しない。でも彼女はどこかにいる。
 よく分からないことを色々と書いたけど、『ライ麦』の瑞々しいティーンの足掻きから、『ゾーイー』の独りよがりで安っぽい救済へ至る途上で、安易な逃避を是とせず、他者との関係の中に救いの形を模索していたサリンジャーの姿がこの小説にはあると僕は思う。『ナイン・ストーリーズ』、今なら『ライ麦』訳者の野崎孝訳が買えるけど、あと何年か経つと2012年刊行の柴田元幸訳が文庫落ちして『フラニーとゾーイー』みたいに読めなくなる可能性もあることだし、買うならお早めに!

 

ナイン・ストーリーズ (新潮文庫)

ナイン・ストーリーズ (新潮文庫)

 

 

 

冷たい方程式(トム・ゴドウィン
 SF短編だ。大真面目に入れている。名編集者ジョン・W・キャンベルにまつわるエピソードでも有名で、誰が決めたのかよく分からないSF五大短編というのにブチ込まれていたりもする。でもこの作品の真価はSFでもどのくらい受容されているだろう?。
 この作品は多くのSFファンに衝撃を与え、「方程式もの」というジャンルまで生み出したが、今やせいぜい一過性のハードコアSFムーブメントの火付け役くらいにしか思われていない気がしてならない。まあぼくはSFの動向に詳しくないので以上は単なる言いがかりだが、ところで僕は『冷たい方程式』は大変に優れた小説だと思っている。この作品は文学史上の数多の名作や古典にも引けを取らないに違いない。本気でそう考えている。
 ところで、SFを知らない人にも想像はつくと思うが、SFで宇宙に行くのは実に簡単だ。月なんて軽井沢、火星にも大体福岡くらいの感覚で着いてしまう。パーマーエルドリッチに会うのも、ソラリスで恋人と暮らすも自由自在。SF人たるわれわれにとって宇宙遊泳など海水浴のようなものだ。もはや凡庸な宇宙人などに有り難みはなく、今どきアダムスキー型UFOなど一瞥にすら値しないだろう。
 だがしかし、SFの外の世界にも実は宇宙は存在している。たとえば、空を見上げた向こうにある現実の宇宙がそうだ。ところで現実の宇宙ってどんなものだっけ? 小難しい知識が無くともイメージは浮かぶだろう。はいはい、まず空気が無くてほぼ真空だ。分子が無いため温度もほぼなく絶対零度。光る星はどれもうんざりするほど遥か彼方。資源もない。生命もない。では何があるんだ? こういう問いに対して「孤独」とか「虚無」とか答える人が多いのは別にSFに限った話ではないが、まあ少し待ってほしい。そいつらの前にまず、宇宙には各種の絶大な困難が存在するはずだ。
 もしかすると、それらは困難と呼ぶにも物足りないかもしれない。現実の宇宙は人間の暖かみなどには無縁で、たぶん広大な宇宙の前にあっては、文明史上の苦難の大部分は苦難の名にすら値しないだろう。そんな無明の真空の中を、宇宙船の内部に、辛うじて人間的な空間を保ちつつ進んでいく――それが現実の宇宙開拓の姿であり、更にいえば、有史以来のあらゆるフロンティア、人類と自然の苛烈な接点の似姿でもあるのだ。
 『冷たい方程式』が描くのはそんな世界だ。

 

冷たい方程式 (ハヤカワ文庫SF)

冷たい方程式 (ハヤカワ文庫SF)

 

 


 

石を愛でる人(小池昌代
 僕より年下の大学生か高校生なら、この小説を読んだことがある可能性はそれなりに高い。2015年のセンター試験にこの短編の全文が出題されたからだ。
 この年の現代文は、どうも易化した上にキャッチーなフレーズも無く話題にならなかったようだが、僕は昔バイト先の学習塾でこの問題を見かけて、奇特にもそれを解いてみたのだった(センター現代文しか誇るものがなかった人間の末路と周りに言われた)。本文を読み終えて、何となくもやもやした気分になった。「石が一体どうしたんだ?」「何でこんなタイミングで話が終わるんだ?」その後、これがもの凄く良い小説なんだと気づいた。
 受験生にとって、入試の場で優れた文章に出会うことが幸福なのか不幸なのかは分からない。ただそれとは別に、この文章自体あまり受験の文脈に優しくないと思う。たとえば、受験国語には「タイトルからテーマを探れ」みたいなテクニックがあるけど、この『石を愛でる人』の主題は石とはほぼ関係ない。この小説の石とは「水石」で、仮に受験の文脈に沿うならば重要なのは水の方だ。石は水を想起する触媒に過ぎない。
 これ以上書くと無粋なので止めるけど、この小説の構成は実はかなり万人の目に見える形で説明できて、あるパラメーターを設定するとグラフっぽいものすら書ける。そのことが分かれば、この小説が少しばかり奇妙なタイミングで結末を迎える理由も、石を見つめる人間たちの姿も、脆さだけではない、彼らの芯を通った強さすらも仄かに見えてくる。本当に。センター試験も隅には置けない。

 

感光生活 (ちくま文庫)

感光生活 (ちくま文庫)

 

 


 
微笑がいっぱい(リング・ラードナー
 この小説にわざわざ解説を書いた人間は日本にはいないが、おそらく何を書いても蛇足にしかなるまい。読めばそれで十分だ。あとサリンジャーが好きな各位は読むように。何せこの短篇は『ライ麦』のホールデン・コーンフィールド君も愛読しているのだから(嘘じゃない。『ライ麦』の本文にもちゃんと登場する。ただし読んでいないと分からないような形で)。でも短篇集の巻末にある対談で、村上春樹柴田元幸もこの『微笑がいっぱい』に言及しないのは不思議だ。両人ともサリンジャー訳者で、特に村上春樹ライ麦を訳しているのに。そんな小ネタは下らないとばかりに無視するのはよくない(知らないことはないと思うんだけど)。まあしょうもない揚げ足取りは置いておいて、『微笑がいっぱい』、本当に良い短編なのでもっと読まれて欲しい。復刊されて嬉しかった。

 

アリバイ・アイク: ラードナー傑作選 (新潮文庫)

アリバイ・アイク: ラードナー傑作選 (新潮文庫)

 

 


ヤング・グッドマン・ブラウン(ナサニエル・ホーソーン
 古典中の古典。そのせいもあって、この短編を読むには少し予備知識が必要だ。
 舞台はセイラム村。ホーソーン自身もこの村の近くの出身で、ここは「セイラム魔女裁判」という出来事(というか事件)で知られている。詳細はWikipedia。大雑把に纏めると、村民同士がお互いを魔女だと密告し合い、大勢が処刑される魔女狩りの様相を呈した惨劇、といったところになる。犠牲者の数は二桁に上った。
 (小説の翻訳はこちらのpdfでも読むことができる)

 

 この小説の解釈の針路は真っ二つに割れる。ひとつは、これを主人公が狂気に至る物語であるとする立場だ。善良な村人に、あるはずもない暗い影を見る。それは狂気のしるしであり、惨劇の予兆に他ならない。のどかな村を囲む暗い森の対比が住人の心情の二面性をくっきりと特徴づける。歴史的な裏付けと、戯画的な悪夢の描写は読み手を魅了してやまないだろう――凡百のサスペンスなど及びもつかない。一般に支持されているのはこちらの方だと思う。

 そしてもうひとつの立場は――僕はこっちの方が好みなのだが――主人公は正気だった、とする立場だ。一見上の逆張りに見えるかもしれないが、こっちもこっちで根拠はある。彼はまったくの正常だった。ではなぜ、彼は森であのような悪夢を見、その後の人生を塞ぎ込み、そのまま死んでいったのか? その答えはこうだ。彼はその理性ゆえに現実を直視し、口を閉ざしたのだ、と。
 この小説の正確な時代設定は分からない。ただ舞台がセイラム村で、そして作者のホーソーンがその村で生まれ育ち、この小説を書いたのがセイラム魔女事件の1世紀以上後だった事実があるのみだ。でも、もし主人公ブラウンがホーソーンと同じく事件から幾年かを経た後の人物ならば、森でみた悪夢はブラウン自身の脳裏にある村の歴史が実体化した結果ということになる。さて、これは単なる狂気なのか?
 またこの小説の冒頭、森へ赴く前のブラウンとフェイスの夫婦は、読めば分かる通り、理想的なまでに純粋だ。知恵の実を口にする前のアダムとイブのように、彼らは不自然なほどに穢れを知らないように見える。映画『トゥルーマンショー』冒頭の街並みのように、不穏さを掻き立てるほどに作為的な平穏さがそこにはある。森へ赴く直前、フェイスはブラウンに行かないで、と懇願し、ブラウンは彼女を諭して森へ向かうことになる。
 以下は私見になるが、森でブラウンが目にした悪夢とはつまり、人間の悪徳そのもの、それも全く善良な人間の内から生じる悪徳なのだ――あたかも楽園の内に発した原罪のように。それは彼の善良さと相反するものだったが、平和で牧歌的なセイラム村とその歴史の如く分かち難いものであり、いずれ彼はそれを直視せざるを得ない運命にあった。そして悪夢の終わり、彼がその名を叫んで選びとったのはフェイス、誠実さを意味する妻の名であり、その後の彼が口を閉ざし、人を信じぬ男になったのも、悪徳に相対する良心のなせるわざだったのではないかと僕は思う。

 もちろんこれは数ある解釈のひとつに過ぎないけれど、僕はこのブラウンの気高さが好きだ。暗い過去を持ち、暗がりの時代を生きる人間は彼だけではないのだから。

 

ホーソーン短篇小説集 (岩波文庫)

ホーソーン短篇小説集 (岩波文庫)