野菜生活

新鮮お野菜王国のマーチ

キャンセルの残忍さ(翻訳)

How not to do social change.

 

数か月前にあるポッドキャスト*1を聴いたことで、以来ずっと悩み続けている。その内容が、カルチャー戦士*2が幅を利かせる現代の本質を突く内容だったからだ。NPRの『目に映らない(Invisibilia)』シリーズはいつも素晴らしいが、その回はエミリーという女性が登場した。

 

エミリーはヴァージニア州リッチモンドハードコアパンクグループのメンバーとして活動していた。30歳の誕生日を控えたある日、彼女は有名バンドの一員だった親友とともにバンに乗っていた。フロリダで予定されたライブに向かっていたところ、会場から出演取り消しの電話が掛かってきた。ある女性が同乗の親友から性的で不愉快な写真を送りつけられたといって、彼を告発したのである。

 

メンバーはすぐさま疑惑を否定したが、エミリーは内心で歯がゆく思っていた。リッチモンドに戻った彼女は、フェイスブックで親友を性加害者として糾弾した。「彼のしたことはすべて許せない。良くないことよ。私は女性を信じる」

 

投稿は効果てきめんだった。彼は結局バンドを脱退することになり、パンクシーンから姿を消した。エミリーが聞いた噂によると、親友は仕事をクビになり、アパートからも追い出され、新しい街でも上手くいってないそうだった。彼と連絡を取ることも二度となかった。

 

その間、彼女は自分のバンドでフロントパーソンを務めていた。しかし2016年の10月に、彼女もまたコールアウトされてしまう。高校時代、およそ10年前に、誰かがある女子学生のヌード画像をネットに投稿したことがあった。当時、エミリーは被害者の女性を絵文字でからかったのだが、これが彼女の関わった大規模なネットいじめの一部だったのだ。

 

エミリーを非難する投稿も急速に拡散された。彼女もまた、国家規模の嫌われ者になったのだ。パンクシーンから追放された。自宅から数ヵ月出られなかった。友人は彼女を見捨てた。恐怖とトラウマを植え付けられ、孤独に過ごした。失踪することも考えた。

 

「これが私の全人生です」と彼女は涙ながらに『目に映らない』で語った。「私にとっては全てに思えます。ただただ、何もかもが終わってしまい、手遅れなのです」

 

しかし、彼女はコールアウトの正当性を認めた。コールアウトされたなら、人間として扱われなくても仕方がないと。「自分自身については、何よりもまず、本当にごめんなさいと思うばかりです。自分が怪物のように思えます」

 

エミリーをコールアウトした男性の名前は、ハーバートという。彼が『目に映らない』に語ったところによると、エミリーをコールアウトしたことで、彼はオーガズムにも似た快感を覚えたという。エミリーの味わった痛みが気になるかと問われた彼は、「ノーだ。気にならない」と回答した。「気にならないよ。だって当然の報いだし、ずっと続いてきたことだから。文字通り、その手のイベントの後で何が起こっても、気にならない。死んでいようが、生きていようが、何でも」

 

インタビュアーのハンナ・ロジンが懐疑的な見方を示すと、彼は自分自身もまた被害者であることを明かした。幼いころに父親にずっと殴られていたのだという。

 

この短い物語の中に、私たちの野蛮きわまる時代文化がもつ病的な一面を見てとることができる。熱狂は、しばしば批判者自身の精神的問題を和らげようと膨れ上がるのだ。ソーシャルメディア上で非難を行えば、知りもしない人々でさえ破壊することができる。謝罪と赦しに必要な個人間の繋がりが存在しないからだ。

 

二元的な部族精神で物事を眺めると、どうなるだろう。「私たち」と「彼ら」、「パンク」と「非パンク」、「被害者」と「加害者」といったように――世界はあっという間に非人間的なものになる。複雑な人間存在を、単純な善と悪にに還元してしまうからだ。突然、R・ケリー*3と下品な絵文字を送った女子高生との間に、何の違いも無くなってしまうのだ。

 

このポッドキャストは、虐待の連鎖が人から人へ伝わっていく様子を垣間見せてくれる。恐ろしいコールアウト文化の中で生きることがどのようなものか。いつ社会から抹殺されるとも知れない、他人を倫理的に出し抜く復讐ゲームの中で。

 

私は年寄りなので、歴史の中に色々と思い当たることがある*4。学生たちが上の世代を間違った思想の持ち主として糾弾し、効率的に殺して回った出来事を。毛沢東文化大革命や、スターリン時代のロシアのことを。

 

しかし、『目に映らない』のエピソードは、コールアウトによって人類が前進する様子を暗に描いている。社会はルールに違反したいじめっ子の息の根を止めることで規範を強制する。システムが機能しないなら、自警団の正義は粗暴でありながらも役割を果たす。著名な人類学者のリチャード・ランガムによれば、これは文明が自らを進歩させる、彼自身の知る唯一のやり方だそうだ。*5

 

本当だろうか? 私たちは、残忍さで回るサイクルの方が、英知や共感よりも文明を進歩させると本当に考えているのだろうか? 私は、文明が進歩するのは法規範を受け入れた時ではないかと思う。私たちがもはやコロシアムに集まって、ライオンに食われる人間を眺めたりしないのは何故だろうか。聖職者たちが、哲学者たちが、芸術家たちが、私たちを残忍さに対して寛容でなくしたからではないか。寛容にさせるのではなく。

 

コールアウト文化の似非リアリズムに付きまとう問題は、あまりにも素朴さが過ぎることだ。ひとたび二元論的な思考で人々を善か悪かに分類してしまうと、まともな手続きなしに誰かの人生を破壊する力を任意の人々に与えてしまう。ルワンダ虐殺への一歩を踏み出してしまうのだ。

 

いくら正義のための試みでも、慈悲深さや、人間の弱さへの配慮、改心のあり方についての理解が乏しければ、蛮行に転じかねないのだ。文明の土台は、あなたが思うよりずっと薄いのである。

 

☟原文☟

www.nytimes.com

 

(訳した人間による補足)

本記事は以下の記事に付した参考URL先を更に訳したものです。

831.hateblo.jp

 

両記事とも元々はコールアウトに関する話題ですが、日本語圏でコールアウトという言葉が一般的でないこと、両者の区別が難しいこと、またコールアウトと言いつつ中身ではキャンセルを論じている媒体も多くあることから、ブログでは両者をあえて区別しないものとしてタイトルを付けています。問題があったらごめんなさい。

 

あと本記事で取り上げられたポッドキャストを視聴してみましたが、エミリーのバンドの曲が使われていたり、記事に出てこない話などもあって面白かったです。エミリーがライブで観客を殴った話とか。

ただ、エミリーその人や番組自体の評判についても様々な意見があったようです。

www.reddit.com

当時の報道や、エミリーの親友のその後についても知りたかったのですが、これについてはよく分かりませんでした・・・流石にフィクションではないと思うのですが。炎上の痕跡が見つかり辛いのはポジティブなことかもしれないと思いつつ、ちょっとは気になるので知っている人がいたらこっそり教えてほしいです。

 

*1:ポッドキャストのURL

www.npr.org

*2:原文は'culture warrior'で、これは特定の文化が脅威に晒されたと感じた時に、それを守ろうとする人のことを指す

*3:R・ケリーアメリカのR&Bアーティスト。この記事が書かれたのと同じ頃、未成年に対する性犯罪など複数の嫌疑で告発された

R.ケリーに性的虐待などで有罪評決。複数の女性や男性が、虐待を告発していた | ハフポスト

*4:原文は'alarm bells were going off'で、これは「頭の片隅で警告音が鳴る」みたいな意味。知らなかったのでここにメモする

*5:念のための補足しておくと、リチャード・ランガムという人はコールアウト文化について何かを述べたわけではない(たぶん)。この発言は'reactive aggression'(反発的攻撃性)と文明の発展との関わりを調べた彼の研究から来ている。ここで詳しく説明する余裕はないが、簡潔に述べると人間文明は社会の秩序を乱す強力な個体を死刑、あるいは'coalitionary proactive aggression'(連帯的かつ主体的な攻撃)によって排除することで自らを家畜化し、進歩してきたという話(という風に訳した人間は解釈している。間違っていたらゴメンナサイ)らしい。以下のURLを参考にした

Did Capital Punishment Create Morality? | The New Yorker

良いキャンセル、悪いキャンセル(翻訳)

 

(注:本文では「コールアウト」となっていますが、日本では「キャンセル」の方が馴染み深いのでタイトルのみそうしました)

 

コールアウトはオンライン文化の大きな特徴だ。しかし、オバマが言ったように、他人の誤りを指摘するのは、ただ自分が気持ち良くなるためのものではない。

 

SNSに疎い人でも、次のような経験をしたことはあるかもしれない。あなたは突如として恐怖に駆られる。言うべきでないことを口にしてしまった。そして、あなたの発言に他の人も気が付いた。

 

あなたはコールアウト(告発)されてしまった。間違いは重大で、取り返しがつかない。事件が人生全体に影響したらどうしようと不安になる。

 

コールアウト文化はある意味、社会から疎外された人々やその理解者が、改革の必要性や不正を訴えるツールとして何世紀にもわたって機能してきた。不平等に対する直接的な行動は、公民権運動からスタンディングロック*1に至るまで、数えきれないほどの社会運動を支えてきた。

 

しかし、現代の「コールアウト」といえば、一般にはソーシャルメディア上で発生する人間同士の対立を指している。本来の理屈からいえば、コールアウトは非常にシンプルなものであるはずだ。誰かが間違いを犯せば、人々が指摘して、二度と同じことをしないよう努めればよい。しかし、インターネットを少々見て回るだけで、コールアウト文化がとんでもない不和の種であることをあなたは知るだろう。

 

今週シカゴで行われたオバマ財団のサミットで、オバマ前大統領はこう述べた。曰く、コールアウトは、まるで自らが変化を起こしているような錯覚を与える、たとえその内容が真実でなくても。「他人の良からぬ振る舞いや言葉遣いをツイートやハッシュタグで発信し、満足して悦に入るというわけだ。『どうだ、俺って進歩的だろ? コールアウトしてやったぜ』とね。そんなものは運動ではない」*2

 

コールアウトの賛否が分かれる理由は、しばしば現状に一石を投じるからだ。それは、不快感や攻撃を引き起こすこともある。たとえば、カナダ人運動家のノーラ・ロレートは、去年ジュニアアイスホッケーチーム「フンボルトブロンコス」のバスが事故*3にあった後に、気前よく1520万カナダドルもの寄付が集まった一因は「犠牲者が若い白人男性だったからだ」とツイッターで仄めかして物議を醸した。また今月の初めには、エレン・デジェネレス*4ジョージ・W・ブッシュとの友情および、誰とでも仲良くする「クンバヤ主義」*5についてツイートしたことを受けて、批判者たちは愛想の良さが純粋な善ではないことを指摘していた。

 

コールアウトは三文芝居を始める口実であり、社会正義ではなくゴシップを引き起こす手段だと感じる人々もいる。先月、コリン・ルーニーが同じ英国サッカー選手の妻であるレベッカ・ヴァーディを情報漏洩で告発*6し、現実世界で昼ドラが始まった件を思い出すといい。あるいはこの夏、YouTuberのタチ・ウェストブルックとジェームズ・チャールズ*7の間で勃発した向こう見ずな諍いのことでもいい。

 

しかし、コールアウト文化を最も強く批判しているのは、それらを粗暴で自警団的な正義を振るう口実と見なしている人々である。「その熱狂は……批判者自身の精神的問題を和らげようと膨れ上がる」と、ニューヨーク・タイムズ紙のコラムニストであるデイビット・ブルックスは表現している*8。ジ・アトランティック誌のコナー・フリーダースドルフも、「容赦ない試練」*9の手法があらゆる非マナー行為に対して用いられている、と書いている*10

 

コールアウトの問題点としてよく指摘されるのは、調子に乗って過剰な罰を与えることで、怒りを引き起こした加害者を被害者に転じさせてしまうことである。「善意および必要性から始まったはずの批判が、あまりにも呆気なく、残忍な引き回し*11に転じてしまうのです」と、活動家兼ライターのルビー・ハマド*12が書いている。

 

では、ここにひとつの問いが残る。コールアウト文化がもたらす社会的利益を、有害無益なデメリットなしに享受するにはどうすればよいのだろう?

 

コールアウトをよりソフトな形で行うべきと提言する人もいる。個人を非難することで、「人間は道徳的な高みに立ち、義憤に駆られ、また晒し刑に加わる人を呼び寄せる」 それは生産的ではない、と争いの仲裁を専門とするセラピストであるアンナ・リチャーズは言う。

 

リチャーズは、誰か個人をコールアウトする時に「還元主義的アプローチ」*13を採ることについて警告している。自分たち自身の間違いを弁明する時には、「私たちは実に様々な前提を考慮することができます」と彼女は述べる。「そう、当時はあれに対処しなきゃいけなかったし、そうする理由もあったから、みんなに従っただけなんだ」 でも、誰かが私たちを怒らせた時は、彼らの振る舞いが何に起因しているのかについて、既に起こった間違い以外のものを見ようとはしないのだ。

 

絶対的に正しいコールアウトの方法は存在しないが、リチャーズは批判を加える際の私たちが自らの動機を分析し、状況の文脈および起こり得る帰結を考慮することで、コールアウト文化が生産的に機能する手助けになると考えている。

 

もちろん、振る舞いを問題とされた人々が、オープンかつ謙虚な態度によって、自身の事件を取っ組み合いへの片道切符ではなく、学びのチャンスと捉えることができるかは、彼ら次第である。結局、人間相手の対立を解決する第一歩は、真摯に謝罪することなのだ。発端となった行為が意図的であろうとなかろうと。

 

残念なことに、謝ることが苦手な人もいる。リチャーズによると、謝罪するためには当人の強固な誇りが必要であるが、人々の多くは自信に欠けていて、間違えることを病的に恐れているのだという。

 

「既に足場が不安定な人にとって、ある種の間違いを強調することは、空のカップから水を抜く行為に等しいかもしれません」と彼女はいう。「私が一般的に目にするのは、当人の自意識が削られて限界に達してしまったり、学ぶことを拒否して反撃を試み、負け試合の席を立とうとしないケースです」

 

また、自己防衛本能から服従を申し出る人もいる。彼らは面目を保つための計算された謝罪は行っても、説明責任を果たすことはしない。(多くの人は、女優のジーナ・ロドリゲスが今月、またコメディアンのシェーン・ギリスが今夏に起こした人種差別的な侮蔑のケースについて、そう感じている)

 

リチャーズは共感主義的アプローチを争いの解決手段として信奉しているが、しかし平和や礼節を堅持する義務を被害者側に求めることについては慎重である。むしろ、他者への思慮に欠けた振る舞いを個人の中で正当化してしまうような、システム的な力学の根源に対して怒りを向けた方がよい、と示唆している。つまり、個人にではなく、より大きなスケールで影響力を持ち、変化をもたらすことのできる政府や企業の組織を相手にした方がよい場合がある、ということだ。結局、リチャーズは一日中争いの仲裁をしているが、個人が振る舞いを改めるケースは「私たちが考えるほど一般的ではありません」と述べる。

 

ことわざにある通り、「戦場は賢く選べ」ということだ。

 

 

しかし、良い結果をもたらすことは不可能ではない。ライター兼活動家のキティ・ストライカーによると、最近ネットフリックスのアニメシリーズ『ビッグマウス』の不正確なバイセクシャル描写に対して沸き起こった批判*14は、コールアウト文化の役割を示す一例だという。バイセクシャルの人間はトランスに惹かれない、という誤った表現により、クィアコミュニティの人々が怒りの声を上げたのだ。プロディーサーのアンドリュー・ゴールドバーグは謝罪し、今後の改善を約束した。

 

ゴールドバーグには他にもすべきことがあっただろうか? もちろん、批判者たちはもっと多様な脚本家たちを雇うことを提案したし、私個人の見方でも、彼が今後どのように作品を融和的なものに変化させていくかは、まだ不明なままだ。でも、償いとはプロセスであり、過ちを認め、学んでいこうとする意思を誠実に表明することから始めるしかないのだ。

 

「コールアウトがいじめと異なるのは、相手を罰しようとするのではなく、新しい振る舞いの形を構築しようとする点にあると思います」と、コールアウトをされる側にもする側にもなったことのあるストライカーは述べる。「基本的に、誰かがあなたをコールアウトした時には、彼らは原因となった振る舞いを改める態度をあなたに見せてもらいたいのです」

 


もし、あなたが不愉快な振る舞いを指摘されたとしたら。耳を傾け、学ぶ態度を見せることは難しいかもしれない、とストライカーは認めている。「時には不快な思いをしたり、怒りが込み上げることもあるでしょう。『どうしてこんな奴の言うことを聞かなきゃいけないんだ?』とね。そうなった時は、深呼吸してツイートを控え、こんな風に考えてみましょう。『オッケー、連中は自分に対して怒り狂っている。でも、その根本的な原因は何だろう?』」

 

「コールアウトされた時、私はこう思うんです。『最高ね。学ぶためのチャンスだもの』」とストライカーは言う。「許しなんていらないけど、ただ友達を傷つけたくはないから」

 

☟原文☟

www.theguardian.com

 

(訳した人間による補足)

RationalWikiの「キャンセルカルチャー」の項には、以下のような説明があります。

Cancel culture is a term whose definition varies depending on who you ask. It's the logical conclusion of the wider callout culture on social media, based on the notion that people who make "toxic" or "offensive" statements related to social justice issues can be grievously punished by an unassuming Twitter mob. According to people on the political center, right or even far-left, this is a legitimate and widespread phenomenon that poses a dire threat to free speech on par with the alt-right. According to the left, it is a strawman promoted by people who hate being called out for perpetuating bigotry.

 

(「キャンセルカルチャー」という言葉の定義は、尋ねる相手によってさまざまだ。これはソーシャルメディア上に広がるコールアウトカルチャーがもたらす帰結であり、社会的正義に照らして「有害」あるいは「攻撃的」な発言をした人物は、無数のツイッター利用者によって徹底的に罰せられるべきという考えに基づいている。政治的に中道、保守、あるいは極左の人々でさえ、このカルチャーは由緒ある広範な現象であり、オルト・ライト同様に言論の自由を脅かすものだという。しかし左派の人々にとっては、偏見を改めたくないがためにコールアウトを憎む人々が生み出した藁人形となるわけだ。)

Cancel culture - RationalWiki

しかし、「左派」の中にもさまざまな意見があるとは思うので、左派メディアであるガーディアン紙の記事を訳してみました。自分はどちらかというと左派とは言い難い人間ですが、今回の記事を読んで得るものは多かったように思います。

ただ、現実のネット炎上というのは苛烈な代物も多いのに、この記事はどちらかといえば穏当なユートピアを想定しているような印象も残りました。苛烈なケースは法律家の領域なのかもしれません。

 

*1:ノースダコタ州サウスダコタ州を跨ぐ先住民の居住地のこと。近年パイプライン敷設を巡る闘争が行われた。

Dakota Access Pipeline protests - Wikipedia

*2:関連記事

ネットの「キャンセル・カルチャー」に警鐘鳴らすオバマ氏 | NewSphere

*3:この記事が書かれたのは2019年なので、ここでいう「去年」とは2018年のことである。以下、去年や今月といった表現はすべて記事中の記述に従う。リンクはバス事故に関する記事

アイスホッケーチームのバスとトレーラーが衝突、死者15人に カナダ 写真10枚 国際ニュース:AFPBB News

*4:トーク番組「エレンの部屋」で有名な人

*5:クンバヤについてはよく分からなかったが、以下は参考URL

ここでのkumbayaはどういう意味ですか? | RedKiwi

*6:コリン・ルーニーは元マンチェスター・ユナイテッド所属のウェイン・ルーニーの妻、レベッカ・ヴァーディはレスタ―所属のジェイミー・ヴァーディの妻である。リンク載せるの面倒なので各自で調べてくれ

*7:どちらも美容系ユーチューバーらしい

*8:Opinion | The Cruelty of Call-Out Culture - The New York Times

追記(1/31):リンク先を訳した

831.hateblo.jp

*9:原文は“trial by fire”

*10:The Destructiveness of Call-Out Culture on Campus - The Atlantic

*11:原文は“tar-and-feathering”で、これは昔ヨーロッパやアメリカで行われた晒し刑のこと。体中にタールを塗り、羽毛を付けて引き回す私刑で、厳しい非難のたとえにも使われる。

*12:https://www.colourcode.org.au/articles/internet-pile-ons-are-no-substitute-for-real-life-change

*13:複雑な物事でも、それを構成する要素に分解し、それらの個別(一部)の要素だけを理解すれば、元の複雑な物事全体の性質や振る舞いもすべて理解できるはずだ、と想定する考え方

還元主義 - Wikipedia

*14:参考URL

Big Mouth accused of biphobia after controversial new scene

ただ、リンク先を読んでも批判の争点について理解することは難しいだろう。要点をいえば、パンセクシャル全性愛者)とバイセクシャル両性愛者)は異なる概念であり、ドラマでは両者を混同することで問題が生じたのだが、この場で深入りすることは止めておく。

ボイコットは有効か?(The Economist)

スポーツ大会のボイコットは、スポーツ自体の歴史と同じくらい古いものです。紀元前332年、アテネは自国選手に八百長疑惑が掛かったことで、オリンピックからの撤退を仄めかしています。近代では、ボイコットは主に政治的な動機から行われます。12月6日、アメリカは2022年の北京五輪に外交団を派遣しないことを発表しました。新疆ウイグル少数民族への人権侵害に抗議するためです。続いてオーストラリアも同様の発表をしましたが、両国の選手は引き続き参加する予定です。中国政府はこれらの発表を「純粋に政治的なスタンドプレー」と一蹴しました。アメリカの行動は無意味なものでしょうか? それともボイコットは効果を発揮するでしょうか?

 

 

ボイコットは通常、少なくとも理屈の上では、政府に一種の政治的・社会的な圧力を加えたり、面目を潰すことを意図しています。そして、目的が達せられることは稀です。その理由の1つとしてボイコットの多くはやり遂げるのが難しいのです。1936年にベルリン五輪が開かれたとき、ナチ政権の賓客になるよりも選手の引き上げを考えた国が複数ありました。でも結局参加したのは49ヶ国で、当時の史上最大規模の五輪となったのです。より最近では、2018年のロシアW杯においてイギリスとドイツがボイコットを画策しましたが、去ったチームは1つもありませんでした。

 

 

ボイコットは時代と場所を問わす行われてきましたが、多くの場合はささやかな影響しか与えません。冷戦時代において、大衆スポーツへの不参加がどのようなものだったか見てみましょう。1980年、アメリカとその他の66の国がモスクワ五輪への参加を拒否しました。ソ連のアフガン侵攻への抗議が主な目的です。ソ連はその意趣返しとして、東側の国々とともに4年後のロス五輪をボイコットしました。どちらの意思表示も冷戦の状況を左右することなく、ただ多くのアスリートがスポーツの栄冠を逸しただけでした。また、自国のボイコットにも関わらずモスクワに行った選手もいました。同様に、アラブ諸国やイランの選手がイスラエル人選手との対戦を拒否しても、パレスチナ内戦への影響はほとんどありません。

 

 

しかし、時にボイコットが有効なことがあります。最も強力な成功例は、反アパルトヘイト運動でしょう。30年以上もの間、白人が支配した南アフリカ共和国はスポーツ大会から除け者にされていました。1964年から92年にわたってオリンピックから排除され(国際オリンピック委員会ではなく、他の国々からの圧力が主な理由です)、ラグビークリケットといった競技の参加も厳しく制限されました。多くの政治学者は、スポーツでの孤立が体制の衰退に繋がったと考えています。『制裁の仕組み(How Sanctions Work)』と題された本のとある研究によれば、制裁は変革を促す圧力を創出し、また「現代史研究」(the Journal of Contemporary History)に掲載された別の研究は、制裁が白人の人種的イデオロギーを弱めることを示唆します。

 

 

他のボイコットが失敗する中で、この例が成功した理由はいくつかあります。まず、長きにわたって運動が続いたことです。目標とした存在にダメージを与えるのに十分なほど長く、です。南アフリカの白人リーダーたちはスポーツを愛していました。特にラグビークリケットを。ある調査によると、1990年には75%近くの南アフリカの白人がスポーツボイコットの影響を強く意識していたそうです。また、ボイコットをした人々の要求も明確で具体的でした。スポーツの門戸を全ての人種に開くよう求めたのです。そして最も重要なことに、ボイコット派は南アフリカ国内の市民運動や他の制裁、たとえば海外からの経済制裁など国家に大きな圧力を与える動きに支えられていました。

 

 

アメリカによる北京五輪の外交ボイコットはおそらく、ほとんど象徴的なものにしかならないでしょう。他の国々もおそらくアメリカに追随して、中国の人権侵害に対するネガティブなイメージを増幅することで、大会を利用して「ソフトパワー」を世界に喧伝しようとする中国の努力に水を差すかもしれません。国外のウイグル人グループは歓迎するでしょう。しかし、彼らの故郷は何も変わりません。

 

☟原文☟

www.economist.com

「反」リベラルな左派が脅威をもたらす(The Economist)

西洋の自由主義は随分おかしくなってしまいました。古典的な自由主義の基本に則るなら、人類の進歩は対話と改革によってもたらされるはずです。分断された世界で危機的状況を乗り切る最良の手段は、個人の尊重、開かれた市場、小さな政府についての普遍的な合意なのです。しかし再び大国の座に返り咲いた中国は、自由主義を自分本位かつ退廃的で不安定なものだと嘲笑しています。私たちの国でも、右派と左派のポピュリストが自由主義をエリート主義的・特権階級的な思想と決めつけて非難しています。

 

過去の250年間で、古典的な自由主義は比類なき進歩をもたらしました。だからその成果が煙の如く消えてしまうことはないでしょう。しかし、一世紀前にボリシェヴィズムとファシズムがヨーロッパを内側から食い破ろうとした時のように、自由主義は厳しい試練に晒されています。まさに今、リベラルは自らが直面している状況を理解し、抵抗すべき時なのです。

 

この戦いがもっとも激しい場所はアメリカです。今週、米最高裁は厳格で奇妙な中絶禁止法の廃止を認めませんでした。自由主義の精神的故郷において、最も破壊的な脅威は右派のトランプ主義者からもたらされています。ポピュリストは、科学や法の支配といったリベラルな枠組みを、 市民の敵であるディープステートによる陰謀の偽装(façades)だと否定しています。彼らは事実や理性を部族的な情熱*1に従属させているのです。2020年の選挙結果が盗まれたと言い張るしぶとい虚言は、この手の衝動の行く末を示しています。意見の不一致を議論や公的機関(trusted institutions)によって解決できない人々は、暴力に訴えるのです。

 

右派の人々と比較すると、左派からの攻撃は掴み難いものです。何故ならアメリカの「リベラル」の中に反リベラル的な左派が含まれるからです。今週、当紙は新しいスタイルの政治思想が名門大学から広まった様子を記事にしています*2。若い卒業生が大手メディアや政界、ビジネスや教育業界に職を得たのち、「悪影響を及ぼしかねない」ものへの恐怖を煽ったり、抑圧されたマイノリティ*3を扱う正義を手にすべく、浅はかに歪められた議論を持ち込んだのです。彼らはまた、無垢なイデオロギーを強制するための戦略を携えていました。敵の発言する場を奪い去り*4、逸脱した味方を切り捨て*5――古典的な自由主義が根付く以前のヨーロッパを支配していた、宗派国家*6のこだまが響くかのようです。

 

表面的には、反リベラルな左派とThe Economistのような古典的リベラルが目指す目標の多くは同じものです。両者とも、人間は性や人種に関係なく人生を享受できるべきだと考えています。政府や既得権益への疑念を共有しています。変化がよりよい世界をもたらす可能性を信じています。

 

しかしながら、古典的リベラルと進歩的な反リベラルが、上記のような理想を実現する方法について意見を一致させることはほぼありません。古典的なリベラルにとって、進歩の正しい方向性は未知のものです。進歩とは自発的で下意上達的でなければいけませんし、いかなる個人や集団も恒久的な権力を手にしないために、分権を必要とします。対照的に、反リベラルな左派は自らの権力に中心的な価値を見出しています。人種や性差やその他の階層構造の解体をこの目で見ない限り、真の進歩などあり得ないと考えているからです。

 

この方法論的な不一致には深遠な違いがあります。古典的リベラルは、初期条件を公平に設定することで、競争を通じて現状を改善しようと考えています。企業の独占を排除し、組合を開放し、税制を根本的に改革し、教育機会の平等を目指しています。一方で進歩派は、レッセフェール(自由放任主義)など既得権者が現状を維持するためのまがい物に過ぎないと考えます。その代わり、彼らは華々しい「公平性」を掲げます。つまり、彼らは自分たちが正当と見なす結果の方を要求するのです。一例を挙げると、学者兼活動家であるイブラム・X. ケンディはこう主張しています。色覚異常テストは標準化された児童検査ですが、もし検査が平均的な人種的差異の拡大に繋がるなら、どんなに優れた意図が含まれていても差別行為である、というのです。

 

ケンディ氏が実用的な反差別ポリシーを要求するのは構いません。でも彼の間抜けなやり方では、障害を持った子ども達に必要な助けが与えられない危険があるし、他の子ども達も自分の才能を理解する機会を失うかもしれません。よりよい社会のためには、集団だけではなく、一人一人の人間が公平に扱われなくてはいけません。その上、社会が掲げる目標だってたくさんあります。人々の関心の対象は経済成長、福祉、犯罪率、環境問題、安全保障と様々だし、特定の集団に有利に働くからといって安易に政策を評価することはできません。古典的リベラルは多元的な社会の優先順位とトレードオフを議論によって明確化し、選挙によって決定します。でも反リベラルな左派は、「思想の自由市場」も他の市場と同様に操作されていると信じています。証拠や主張を装っているものは、彼らによると、既に権力を手中に収めているエリートの声明なのだそうです。

 

古き良き進歩主義は今なお表現の自由の擁護者です。しかし、反リベラルな進歩派は、公平性のために特権階級や反動的な人*7に対して不公平なフィールドを作らねばならないと考えています。その意味するところとは、たとえば表現の自由の制限です。あるいは、上に立つものは"修復的司法"*8においてより強い立場にある者に従わなければならないとする、被害者意識のカースト制度の利用もあります。また、反動的と思われる人間を見せしめにするために、非特権的な層を不安にさせた発言者を厳しく罰したりもします。その結果実現したのが、コールアウト、キャンセルカルチャー、ノープラットフォームです。

 

ミルトン・フリードマンはかつて「自由よりも平等を重んじる社会は、結局どちらも得られない」と述べたことがあります。彼は正しい。反リベラル的な進歩派は、自分たちが抑圧された集団を解放する青写真をもっていると思っていることでしょう。現実には、それは個人を抑圧する手引でしかありませんし、内容も右派のポピュリストの計画と似たりよったりです。両者ともそれぞれの方法で、プロセスより権力を、手段より目的を、個人の自由より集団の利益を優先しているのです。

 

ポピュリストが真実よりも党派性(partisanship)を優先させるとき、彼らは良き政府たることを怠っています。進歩派が人々をカースト内競争へ分断させるとき、彼らは国家を内部から反目させています*9。両者とも、社会的な対立を解決するための諸制度を軽んじているのです。したがって、彼らはしばしば弾圧に頼ります。いかに正義について語るのが好きであってもね。

 

ポピュリストが称賛する「強者が運営する国家」は、オルバーン・ヴィクトルハンガリーウラジーミル・プーチンのロシアがそうであるように、抑制不可能な権力が良い政府の基盤にならないことを示しています。キューバベネズエラのようなユートピアは、目的が手段を正当化しないことの表れです。そして、国家が押し付ける人種や経済のステロタイプに、個人が喜んで従うような場所はどこにもありません。

 

古典的な自由主義がそんなに優れているなら、なぜ世界中で悪戦苦闘しているのでしょうか? 理由の一つは、ポピュリストと進歩派がお互い病的に噛み付きあっているからです。憎悪に燃える両陣営は、他方が支持者を煽る様子を意識することで、双方がますます勢い付きます。自らの陣営*10の行き過ぎを批判するなんて、もはや裏切りのようなものでしょう。状況がこうなってしまうと、自由主義は酸素不足に陥ります。たとえば過去数年間のイギリスでは、強硬なブレグジット派のトーリー党と、ジェレミー・コービン率いる労働党がそうした争いに明け暮れていました。

 

自由主義には、人間が生来持つ気質に反するようなところがあります。たとえ相手が間違っていると知っていても、論敵が発言する権利を守らねばなりません。自分にとって最も強固な信念すら疑ってかかる必要があります。企業は創造的破壊*11の強風から保護されてはなりません。あなたが大切に思う人たちは、自分の力だけで前進しなくてはいけません――たとえあなたの本能が、彼らのためにルールをねじ曲げたくなっても、です。そして仮にあなたの敵が国家を滅ぼすと分かっていても、投票所における彼らの勝利を受け入れなくてはいけません。

 

簡単にいうと、本物のリベラルでいるのは大変なのです。ソ連の崩壊後、最後のイデオロギー的なライバルが崩れ落ちたように思われたとき、傲慢なエリートたちは自由主義の謙虚な精神を捨て、自らを疑うことを止めてしまいました。自分たちは常に正しいのだと、そう信じる習慣に陥ったのです。自分たちに近い人々の支持を集めるべく、アメリカの実力主義メリトクラシー)を改変しました。金融危機の後に彼らが主導した経済成長は、人々が豊かさを実感するには鈍重過ぎるものでした。労働者階級に属する白人からの批判に耳を傾けるどころか、彼らの振る舞いを洗練さを欠いたものと見做して嘲りました*12

 

この愚かな停滞により、敵対者は自由主義の恒久的な欠陥を糾弾する機会を得ました。そしてアメリカ国内における人種の扱いと結びつけて、国全体が最初から腐っていたと主張させることになったのです。不平等や差別に直面したとき、古典的なリベラルは人々に対して変化には時間が掛かることを思い出させることができます。しかし、ワシントンは崩壊し、中国は躍進し、人々は不安に駆られています。

 

信念を欠いたリベラル

 

より究極的な停滞は、古典的なリベラルが脅威を過小評価することかもしれません。あまりに多くの右寄りのリベラルが、ポピュリストとの気軽で恥ずべき結婚を選択する傾向にあります。左寄りのリベラルの場合、自分たちも社会的な正義を求めているのだと強調する人間も多く存在します。彼らは、最も非寛容な反リベラルは極一部の少数派に過ぎないと思い込むことで現実から目を背けています。「なあに、心配ない」と彼らは言います。「不寛容は変化の過程で生じる一過性のものだ。不正義に集中しさえすれば、本来の形に戻るさ」

 

しかし古典的なリベラルは、人々を過激な方向に引っ張ろうとする力に抵抗することで、思想の暴走を防いでいるのです。自由主義の原理を適用し、弾圧に頼ることなく社会の様々な問題の解決を助けています。多様性の価値を知り、より強力なものにできるのはリベラルだけです。教育計画から外交方針に至るまで、人々に創造的なエネルギーを発揮させ、公平に扱うことができるのもリベラルだけです。古典的なリベラルは、自らの闘志を再発見する必要があります。いじめっ子やキャンセル活動家と戦うべきです。自由主義は今なお公平な進歩をもたらすための最良の手段であり続けています。リベラルはそう言い切る勇気を持たねばなりません。■

 

この記事は印刷版のリーダーセクションに「反リベラルな左派の脅威」というタイトルで掲載されました。

 

☟原文はこちら☟

www.economist.com

 

 

*1:原文はtribal emotions。

*2:How did American “wokeness” jump from elite schools to everyday life? | The Economist

*3:原文はoppressed identity groups(抑圧されたアイデンティティ集団)だったが長いので変えた

*4:ノープラットフォーム(No-platforming)のこと

*5:原文は"cancelling"

*6:宗派国家(confessional state)は、優越する国教を定めつつも他宗教に寛容な体制のこと

*7:原文はreactionaries。これには「保守派」という意味も含まれるが、保守派一般にハンデを課すべきというのは文脈に合わないのでこの訳を選択した

*8:「修復的司法」とは犯罪の被害者と加害者が一堂に会して問題解決を図るプロセスのこと。Wikipedia英語版には修復的司法の問題点に関する記述がある。https://en.wikipedia.org/wiki/Restorative_justice#Criticism

*9:原文はturn nation against itself。リンカーンの有名な演説の一節"A house divided against itself cannot stand." (ばらばらになった家は立ち行かない)から来ているのかもしれない。この一節は元々聖書からの引用で、マタイ12:25 “Every kingdom divided against itself is brought to desolation, and every city or house divided against itself will not stand."(おおよそ、内部で分れ争う国は自滅し、内わで分れ争う町や家は立ち行かない)に由来するそうです

*10:ここも原文はtribe。

*11:創造的破壊 - Wikipedia

*12:「忘れられた人々」への言及。https://en.wikipedia.org/wiki/Forgotten_man

英国の記念硬貨の意匠がクソ適当な話(the Guardian)

 よく知られているように、オスカー・ワイルドはこう言ってません*1。曰く、「Goodreadsを引用の出典として信用するな」。王立造幣局H・G・ウェルズを称える2ポンド記念硬貨を不正確な引用とともに(四本足の火星人*2の意匠付きで)発売した一ヶ月後、今度は『不思議の国のアリス』の著者のルイス・キャロルが、身に覚えのない文章と一緒に硬貨にされた最新の人物になりました。

 

不思議の国のアリス』150周年を記念する50ペンス硬貨はウェストミンスター・コレクションによって発売されました。彼らは引用した文章を、「キャラクターを特徴付ける」「もっともよく知られた言葉」であると主張しています。残念なことに、目ざとい専門家によって、いくつかの文章はGoodreadsや多数の啓発ポスター?などに見つかるものの、キャロルが書いたものでないことが明らかになりました。

 

 白ウサギは「急げば急ぐほど置いて行かれるんだ」なんて言ってませんし、帽子屋も「君に分かりやすくしてあげる義務なんてないね」とは言ってません。ハートの女王による「もう十分だ!奴らの親玉(head)を切れ!」はおおよそ合っています。彼女が所望しているのは全員の首(heads)なのですが。

 

 ルイス・キャロル・レビュー編集者のFranziska Kohlt博士は、しょっちゅうキャロルの間違った引用に出くわしていると語ります。「コレクター向けのページでコインに関する投稿を見たんです。半ば無意識にチェック掛けてましたね。『これ間違いじゃなかったらいいなー……うわダメじゃん』って」

 

 Kohltによると、「急げば急ぐほど」と「そんな義務はない」の2つの引用は「絶対にキャロルのものではない、インターネットにそう書いてあっても」だそうです。「日々どれほどの誤った引用に出会っていることか、きっと信じてもらえないことでしょう。学術論文の中にも見つかるくらいです」と彼女は言います。「文学を題材にしたコインで、引用自体の間違いや細かいミスが発生するのは今回が初めてなどではありません。この手のミスが無くならないのは実に腹立たしいことです。チェックするのは簡単なのに」

 

 よくある話として、『アリス』の引用の誤りはディズニー映画が発端であることも多いです。1951年のアニメーションや2010年のティム・バートンの実写映画でも例があります。オランダに住むファンのLenny de Rooyは主たる誤った引用をAlice-in-Wonderland.netに纏めようとしています。「ルイス・キャロルや『アリス』の言葉は、可愛らしいイメージや商業主義と結びついて現代のあらゆる場所に出現しています」と彼女は記している。「不幸なことに、間違った引用がたくさんあります。それらは『アリス』の言葉でもなければ、著者とも関係がありません。お願い、間違ったイメージを広めないで!」

 

 Rooyは広く誤用されている「急げば急ぐほど」の典拠が不明なことに気が付きましたが、「君に分かりやすくしてあげる義務なんてないね」については述べていません。ところでこちらは、天体物理学者のNeil deGrasse Tysonによる『忙しい人のための天体物理学』*3という本に登場します。Tysonはこの本で「宇宙には君に分かりやすくしてあげる義務なんてないね」と書いたのですが、帽子屋と混同された経緯は不明です。

 

 キャロルのコインはコレクター向けであり、王立造幣局が生産したものでもありません。もっとも王立造幣局は最近H・G・ウェルズの2ポンド記念硬貨に刻む引用を間違えたり、ジェーン・オースティンの10ポンド記念紙幣に記した引用を間違えたりしましたが(「結局、本を読む楽しさって唯一無二のものなのね!」という台詞ですが、実際にはオースティンではなく彼女の小説に登場するキャロライン・ビングリーのもので、この人物は読書に興味などありません*4)。ちなみに、キャロルの記念硬貨マン島では法定硬貨として通用しますが、5つの50ペンス硬貨のセットが31.25ポンド*5することを考えると*、一般に使用されることは考えにくいでしょう。

 

 ウェストミンスター・コレクションの広報担当者はガーディアン紙の取材に次のように回答しました。「これらの台詞はキャラクターと結び付いて親しまれています。貴紙の考えとは異なり、原作の台詞を直接用いなければならないわけではありません」

 

 キャロルならきっとこう言ったでしょう。「どこに向かっているか分からないなら、どんな道でも正解だ」いや、これはジョージハリスンだったっけ?*6

 

☟原文☟

www.theguardian.com

 

 

 

*1:誤訳ではない

*2:HG Wells fans spot numerous errors on Royal Mint's new £2 coin | HG Wells | The Guardian

「四本足の火星人」は"A tripod with four legs"。TripodはH・G・ウェルズの小説『宇宙戦争』に登場するタコ型兵器のこと。足が3本なのでtripodと呼ばれるが、造幣局が足を4本描いたコインを発売したため炎上した

*3:Astrophysics for People in a Hurry - Wikipedia

*4:Why that Jane Austen quotation on the new £10 note is a major blunder | Bank of England | The Guardian

この件は2013年に記事になっている

*5:https://www.westminstercollection.com/p-X267/Alices-Adventures-in-Wonderland-Silver-50p-Set.aspx

このサイト見たら31.25ポンドじゃなくて320ポンドらしいんですけどー

*6:Any Road - Wikipedia

この歌詞は『アリス』が元になってはいるものの、原作とはニュアンスも文自体も異なります

好きな短編小説7つ

 中学時代のある日のこと。歴史の教師が自らの好きな本について語ったひとことを、自分は今でも鮮明に覚えている。

「中学生の頃は、海外作家の短編集ばかり読んでいたんですよ」

「分かる!!」寡黙な教室の中でも一際寡黙な人間の中で内なる心はこう叫んだ。的確だ。ある人の読書遍歴を説明するのに、この短い一言は余りに雄弁でかつ普遍的であると思った。決して少なくない数の本好きがこの道を通るのだ。ぼくも例外ではなかった。

 どういうことか乱雑に説明しよう。ある種の人々はいつしか海外への憧れに目覚めるものである。その中でもさらに特別な人々は、海外に関わる諸々を何か知的なものと捉えるようになる。馴染みのない言語、見知らぬ文化、教科としての英語、あるいは国際人を育てる教育方針などなんでも良いが、そういったものが影響して自分の知的なアイデンティティを舶来の品々に仮託する精神が選ばれし人間のもとに芽生えるのだ。分かりやすくいえば厨二病の一種だ。

 さて、このような人間をあなたはどう思うだろうか。薄っぺらい? 少なくともぼくにはそんな感想は逆立ちしたって言えない。自分がそうだったから!!
 ここからは自分の話だ。自分の選んだ舶来ものは海外小説だった。ハリーポッターが好きだった自分にとってシンプルな帰結だった。でも初めは長編なんて読めなかったから短編をいっぱい読んでいた。

 短編集というものは便利で、本一冊を最後まで読めなくても楽しめる。一作一作が異なる人物、異なる世界、異なる結末を持っていて、物語はめまぐるしく入れ替わる。あたかも多様な人々が一冊の雑踏の中で交差する小さな大都会のようだ。そこにはカラマーゾフ一家の長々とした前史も、ナンタケットから船が出航するまでの顛末もなく、物語との別れも短い。でも幼かった自分は、ロンボーンやマコンドの片田舎にほとんど負けないくらい、短編小説の裏道や雑踏を脳裏に浮かべていたと思う。

 訳の分からないことを書いたが、つまり思春期というアイデンティティが形成される時期において、少しでも早く大人の世界に飛び込もうと足掻いた人間が手に取るのが海外の短編小説なのだ。少なくとも自分の場合はそうだった。くだんの歴史教師がそうであったかについては確認していない。違っていたらすまんな。

 前置きが長くなったが、短編小説は自分の読書遍歴の中で最も付き合いの長いフォーマットなのです。その経験の中で特に好きなものを7つ、ここに並べて色々と書いてみたいと思います。

 

 

遊戯の終わり(フリオ・コルタサル
 ボルヘスとともにラテンアメリカ最良の短編作家とされるのがコルタサルだ。『遊戯の終わり』はその彼の代表的な短編集であり、その掉尾を飾る表題作の名でもある。
 コルタサルボルヘスも、方向性こそ異なるものの、ある種の幻想的な作風で知られる作家だ。南米という括りを外しても、エンデ、カルヴィーノなどと共に両者を愛読する人間は多い。この短篇集にもそうした奇妙な話が数多く収録されていて、今なお多くの人間の支持を得ている。
 しかしながら、肝心の表題作である『遊戯の終わり』に幻想文学としての要素はほとんど無い。作中には異世界も非日常も登場せず、まったき日常を描いた短編となっている。コルタサルの幻想的な世界に惹かれて彼の本を読み進めた人間は、こうした作品に出会って当惑するかもしれない。優れたラテンアメリカ文学者である寺尾隆吉の『ラテンアメリカ文学入門』(中公新書)でも、この本の短編を日常的なものと非日常的なものとにはっきり区別して紹介している。
 その一方で、こうした違いがコルタサルという作家を分断して二面性を持たせているかというと、決してそんなことはない。この本の非日常的な作品は勿論、日常的な作品にしてもまた確かにコルタサルのものであって、どちらも同じ作家の手になる作品だと感じられる。要するに両者は何らかの共通項なり一貫性を持っている。少なくとも僕はそのように考えるが、ではその共通項とは何だろう?
 『遊戯の終わり』のストーリーはこうだ。三人の女の子がとある家に住んでいる。家の裏手には線路があって、電車が通るたび、彼女らは乗客に見える位置から、衣装や小道具を身に着けて様々なポーズをとる遊びをしている。乗客のひとりの男の子がその様子に惹かれ、走る電車から彼女らにメッセージを残す。異なる世界の住人同士のささやかな交流がはじまる。
 前述の寺尾隆吉は『遊戯の終わり』を「全くの日常的な作品」としているが、僕は舞台が日常にあっても作中にはコルタサル的で異常な要素が含まれていると思う。結論からいえば、それは両者の接点が鉄道であるという点だ。考えてもみて欲しい。眼前を猛スピードで走り抜ける鉄道! 駅や車内でもないのに、ふわふわした少年少女が出会えるもんなのか? たしかに日常の話だし物理的には可能なんだろうけど、でもここには抗いようのない圧倒的な「速度」の表現がある。そしてこの「速度」はコルタサルの他の作品、それも『夜、あおむけにされて』や『南部高速道路』などの非日常的な作品にも現れるものなのだ。速度こそはコルタサルを特徴付ける強力なモチーフの一つなのだ、と少なくとも僕は考えている。『遊戯の終わり』で運命的な出会いを果たした少年と少女たちだが、時の歯車は息つく暇もなく回転を続け、電車は来たときと同じようにただ去っていく。
 それにしても、青春はあっという間だって皆言うけれど、それをコルタサルほど端的に描いた作家が一体何人いるだろう?

 

遊戯の終わり (岩波文庫)

遊戯の終わり (岩波文庫)

 

 


死せるものたち(ジェイムズ・ジョイス
 完璧な作品に付け加えることなどない。既存の解説もこれ以上なく充実している。ぼくが今更書くべきことなど何もないし、そして何より、解説を読んでも読まなくてもこの作品は最高だと思う。
 短篇集『ダブリンの人びと』には新潮、岩波、ちくまの各文庫版がある。新潮の訳者はジョイス訳者として知名度がある柳瀬尚樹だが、この人はこの難解な短編集をろくに解説しないどころか、作品の背景の説明もほとんどしない。それはちょっと……という人は、ちくまと岩波の両文庫版には詳細な解説や作品ごとの解題があるのでそっちのがいいかも。ちなみに、この短篇集の成立に際してはそれなりに興味深い事情もある。
 あとこの作品ちょっと長くて、中編じゃね?などと突っ込まれてもいるけど、そんな枝葉末節に拘るのは人生の浪費なので気にしてはいけない。そもそも短編で通用すると思うけどなあ。

 

ダブリナーズ (新潮文庫)

ダブリナーズ (新潮文庫)

 

 


エズミに捧ぐ(J・D・サリンジャー
 著者は有名な『ライ麦畑でつかまえて』の作者だが、サリンジャーには『ライ麦』以外にも熱烈に支持されている小説があることを知っているだろうか。『フラニーとゾーイー』『ナイン・ストーリーズ』といった作品がそれで、『ライ麦』は青臭くて肌に合わないがこの2つは認めるという訳の分からない人も結構いる。僕もその一人だ。
 『エズミに捧ぐ』も短編集『ナイン・ストーリーズ』所収の作品である。ところでこの『ナイン・ストーリーズ』は実に素晴らしい一冊だ。村上春樹はこの本の短編で2つばかり気に入らないものがあるようだが、(具体的な作品名は明らかにしていないが想像はつく)あとの7つにはそれほど文句の付けようも無いはず。好みを差し引いても作品のレベルは明らかに高い。
 サリンジャーの短編にはある種の美学があり、読後の余韻が非常に重視されている。読めば分かるが、彼の短編は構成的に独自のセオリーを持っていて、かつサリンジャーはそうした変奏の類まれなる名手だった。彼の作家としての全盛期が長続きしなかったのが惜しまれる。
 さて、『エズミに捧ぐ』は『ナイン・ストーリーズ』の中でも非常にサリンジャーらしい作品だ。作中には彼の主要なテーマといわれる「イノセンス」が端的に表れていると言われる――まあこれはある程度サリンジャーを知っている人なら一読して分かることだが、『エズミに捧ぐ』はもう少しだけ奥深い。これはサリンジャーの変遷の過渡期にある作品なのだ。
 この小説の主人公は、命を吹き込まれた多感な少年ホールデン・コーンフィールドではない。東洋的な独覚を志向し、ついには読者の視線すら拒絶するグラース家の非現実的な神童たちでもない。舞台は第二次大戦、主人公はノルマンディー上陸作戦に参加する兵士の一人だ。執筆にあたってはサリンジャーの戦場体験が生かされ、内にこもりがちな人生を送った彼が、自身の社会的な経験をフィクションに昇華させた例外的な作品となっている。そして戦争後遺症を扱ったこの小説で、サリンジャーは虚構を許容しない当事者の立場と、容易に救済されないマイノリティの立場の双方を併せ持つことになり、そのために『エズミに捧ぐ』は作者に妥協を許さない作品となった。
 それがこの『エズミに捧ぐ』の素晴らしさだ。
 発表当時、反戦運動に湧き上がるアメリカで、この小説は一躍注目の的になった。さて、その熱狂的な受容から半世紀を経た現在、この小説の価値は失われただろうか? そんなことは……読んだ各々が判断すべきことだろう。戦争も、それに苦しむ人々もまだまだ絶えない。そして全ての人々が同情されることもありえない。この小説を読んだ人は言うかもしれない。「エズミなんてどこに存在するんだ? 全く非現実的じゃないか」確かにエズミなど存在しない。でも彼女はどこかにいる。
 よく分からないことを色々と書いたけど、『ライ麦』の瑞々しいティーンの足掻きから、『ゾーイー』の独りよがりで安っぽい救済へ至る途上で、安易な逃避を是とせず、他者との関係の中に救いの形を模索していたサリンジャーの姿がこの小説にはあると僕は思う。『ナイン・ストーリーズ』、今なら『ライ麦』訳者の野崎孝訳が買えるけど、あと何年か経つと2012年刊行の柴田元幸訳が文庫落ちして『フラニーとゾーイー』みたいに読めなくなる可能性もあることだし、買うならお早めに!

 

ナイン・ストーリーズ (新潮文庫)

ナイン・ストーリーズ (新潮文庫)

 

 

 

冷たい方程式(トム・ゴドウィン
 SF短編だ。大真面目に入れている。名編集者ジョン・W・キャンベルにまつわるエピソードでも有名で、誰が決めたのかよく分からないSF五大短編というのにブチ込まれていたりもする。でもこの作品の真価はSFでもどのくらい受容されているだろう?。
 この作品は多くのSFファンに衝撃を与え、「方程式もの」というジャンルまで生み出したが、今やせいぜい一過性のハードコアSFムーブメントの火付け役くらいにしか思われていない気がしてならない。まあぼくはSFの動向に詳しくないので以上は単なる言いがかりだが、ところで僕は『冷たい方程式』は大変に優れた小説だと思っている。この作品は文学史上の数多の名作や古典にも引けを取らないに違いない。本気でそう考えている。
 ところで、SFを知らない人にも想像はつくと思うが、SFで宇宙に行くのは実に簡単だ。月なんて軽井沢、火星にも大体福岡くらいの感覚で着いてしまう。パーマーエルドリッチに会うのも、ソラリスで恋人と暮らすも自由自在。SF人たるわれわれにとって宇宙遊泳など海水浴のようなものだ。もはや凡庸な宇宙人などに有り難みはなく、今どきアダムスキー型UFOなど一瞥にすら値しないだろう。
 だがしかし、SFの外の世界にも実は宇宙は存在している。たとえば、空を見上げた向こうにある現実の宇宙がそうだ。ところで現実の宇宙ってどんなものだっけ? 小難しい知識が無くともイメージは浮かぶだろう。はいはい、まず空気が無くてほぼ真空だ。分子が無いため温度もほぼなく絶対零度。光る星はどれもうんざりするほど遥か彼方。資源もない。生命もない。では何があるんだ? こういう問いに対して「孤独」とか「虚無」とか答える人が多いのは別にSFに限った話ではないが、まあ少し待ってほしい。そいつらの前にまず、宇宙には各種の絶大な困難が存在するはずだ。
 もしかすると、それらは困難と呼ぶにも物足りないかもしれない。現実の宇宙は人間の暖かみなどには無縁で、たぶん広大な宇宙の前にあっては、文明史上の苦難の大部分は苦難の名にすら値しないだろう。そんな無明の真空の中を、宇宙船の内部に、辛うじて人間的な空間を保ちつつ進んでいく――それが現実の宇宙開拓の姿であり、更にいえば、有史以来のあらゆるフロンティア、人類と自然の苛烈な接点の似姿でもあるのだ。
 『冷たい方程式』が描くのはそんな世界だ。

 

冷たい方程式 (ハヤカワ文庫SF)

冷たい方程式 (ハヤカワ文庫SF)

 

 


 

石を愛でる人(小池昌代
 僕より年下の大学生か高校生なら、この小説を読んだことがある可能性はそれなりに高い。2015年のセンター試験にこの短編の全文が出題されたからだ。
 この年の現代文は、どうも易化した上にキャッチーなフレーズも無く話題にならなかったようだが、僕は昔バイト先の学習塾でこの問題を見かけて、奇特にもそれを解いてみたのだった(センター現代文しか誇るものがなかった人間の末路と周りに言われた)。本文を読み終えて、何となくもやもやした気分になった。「石が一体どうしたんだ?」「何でこんなタイミングで話が終わるんだ?」その後、これがもの凄く良い小説なんだと気づいた。
 受験生にとって、入試の場で優れた文章に出会うことが幸福なのか不幸なのかは分からない。ただそれとは別に、この文章自体あまり受験の文脈に優しくないと思う。たとえば、受験国語には「タイトルからテーマを探れ」みたいなテクニックがあるけど、この『石を愛でる人』の主題は石とはほぼ関係ない。この小説の石とは「水石」で、仮に受験の文脈に沿うならば重要なのは水の方だ。石は水を想起する触媒に過ぎない。
 これ以上書くと無粋なので止めるけど、この小説の構成は実はかなり万人の目に見える形で説明できて、あるパラメーターを設定するとグラフっぽいものすら書ける。そのことが分かれば、この小説が少しばかり奇妙なタイミングで結末を迎える理由も、石を見つめる人間たちの姿も、脆さだけではない、彼らの芯を通った強さすらも仄かに見えてくる。本当に。センター試験も隅には置けない。

 

感光生活 (ちくま文庫)

感光生活 (ちくま文庫)

 

 


 
微笑がいっぱい(リング・ラードナー
 この小説にわざわざ解説を書いた人間は日本にはいないが、おそらく何を書いても蛇足にしかなるまい。読めばそれで十分だ。あとサリンジャーが好きな各位は読むように。何せこの短篇は『ライ麦』のホールデン・コーンフィールド君も愛読しているのだから(嘘じゃない。『ライ麦』の本文にもちゃんと登場する。ただし読んでいないと分からないような形で)。でも短篇集の巻末にある対談で、村上春樹柴田元幸もこの『微笑がいっぱい』に言及しないのは不思議だ。両人ともサリンジャー訳者で、特に村上春樹ライ麦を訳しているのに。そんな小ネタは下らないとばかりに無視するのはよくない(知らないことはないと思うんだけど)。まあしょうもない揚げ足取りは置いておいて、『微笑がいっぱい』、本当に良い短編なのでもっと読まれて欲しい。復刊されて嬉しかった。

 

アリバイ・アイク: ラードナー傑作選 (新潮文庫)

アリバイ・アイク: ラードナー傑作選 (新潮文庫)

 

 


ヤング・グッドマン・ブラウン(ナサニエル・ホーソーン
 古典中の古典。そのせいもあって、この短編を読むには少し予備知識が必要だ。
 舞台はセイラム村。ホーソーン自身もこの村の近くの出身で、ここは「セイラム魔女裁判」という出来事(というか事件)で知られている。詳細はWikipedia。大雑把に纏めると、村民同士がお互いを魔女だと密告し合い、大勢が処刑される魔女狩りの様相を呈した惨劇、といったところになる。犠牲者の数は二桁に上った。
 (小説の翻訳はこちらのpdfでも読むことができる)

 

 この小説の解釈の針路は真っ二つに割れる。ひとつは、これを主人公が狂気に至る物語であるとする立場だ。善良な村人に、あるはずもない暗い影を見る。それは狂気のしるしであり、惨劇の予兆に他ならない。のどかな村を囲む暗い森の対比が住人の心情の二面性をくっきりと特徴づける。歴史的な裏付けと、戯画的な悪夢の描写は読み手を魅了してやまないだろう――凡百のサスペンスなど及びもつかない。一般に支持されているのはこちらの方だと思う。

 そしてもうひとつの立場は――僕はこっちの方が好みなのだが――主人公は正気だった、とする立場だ。一見上の逆張りに見えるかもしれないが、こっちもこっちで根拠はある。彼はまったくの正常だった。ではなぜ、彼は森であのような悪夢を見、その後の人生を塞ぎ込み、そのまま死んでいったのか? その答えはこうだ。彼はその理性ゆえに現実を直視し、口を閉ざしたのだ、と。
 この小説の正確な時代設定は分からない。ただ舞台がセイラム村で、そして作者のホーソーンがその村で生まれ育ち、この小説を書いたのがセイラム魔女事件の1世紀以上後だった事実があるのみだ。でも、もし主人公ブラウンがホーソーンと同じく事件から幾年かを経た後の人物ならば、森でみた悪夢はブラウン自身の脳裏にある村の歴史が実体化した結果ということになる。さて、これは単なる狂気なのか?
 またこの小説の冒頭、森へ赴く前のブラウンとフェイスの夫婦は、読めば分かる通り、理想的なまでに純粋だ。知恵の実を口にする前のアダムとイブのように、彼らは不自然なほどに穢れを知らないように見える。映画『トゥルーマンショー』冒頭の街並みのように、不穏さを掻き立てるほどに作為的な平穏さがそこにはある。森へ赴く直前、フェイスはブラウンに行かないで、と懇願し、ブラウンは彼女を諭して森へ向かうことになる。
 以下は私見になるが、森でブラウンが目にした悪夢とはつまり、人間の悪徳そのもの、それも全く善良な人間の内から生じる悪徳なのだ――あたかも楽園の内に発した原罪のように。それは彼の善良さと相反するものだったが、平和で牧歌的なセイラム村とその歴史の如く分かち難いものであり、いずれ彼はそれを直視せざるを得ない運命にあった。そして悪夢の終わり、彼がその名を叫んで選びとったのはフェイス、誠実さを意味する妻の名であり、その後の彼が口を閉ざし、人を信じぬ男になったのも、悪徳に相対する良心のなせるわざだったのではないかと僕は思う。

 もちろんこれは数ある解釈のひとつに過ぎないけれど、僕はこのブラウンの気高さが好きだ。暗い過去を持ち、暗がりの時代を生きる人間は彼だけではないのだから。

 

ホーソーン短篇小説集 (岩波文庫)

ホーソーン短篇小説集 (岩波文庫)

 

 

死に際する願い(The Economist)

 脳卒中を起こしてからというもの、マリアの父はもはや喋ることもできなくなった。それでも娘は父に言葉を掛け続け、彼は祈り続けた。最後の日には多くの苦しみが訪れたが、息を引き取るとき、彼女の手を握った父は安らぎの中にあったのだとマリアは信じている。彼女自身の死については、大事なのは『精神の安らぎ』であり、それが最重要事項とのことだ。

 いささか感傷的な紹介になったこのブラジル人のエピソードは、エコノミストとカイザー家族財団(医療や健康に関する提言を行うアメリカの非営利団体)が共同で行った調査*1の中で収集されたものだ。少なくとも88%の人間が、『安らぎの内に臨終を迎えること』を『きわめて重要』あるいは『かなり重要』と考えている(表参照)。アメリカと日本では『家族に医療費の負担を掛けないこと』が最も重要視される結果となり、『きわめて重要』と答えた人がそれぞれ54%、59%にのぼった(日本人はたぶん葬儀費用のことを気にしている。平気で300万とかいくからね*2)。イタリア人の3分の1は愛する人と過ごすことを重視した。ブラジルは『痛みやストレスを減らすよりも、長く生きることを目指す』と答えた人の数が、他の選択肢をひとつでも上回った唯一の国だった。

https://cdn.static-economist.com/sites/default/files/imagecache/1280-width/images/print-edition/20170429_IRC499.png

 宗教がこれらの違いのいくつかを説明してくれる。ブラジルでは他のどの国よりもカトリックが多い。おそらく多くの人間が、人生を可能な限り延長すべきとする教会の歴史ある主張に影響され、そのことに英雄的な価値さえ感じているのかもしれない。アメリカなどで起きた法廷闘争で、家族が長期にわたって植物状態になっている身内からチューブを外すよう求めたとき、教会は多くの場合反対の立場を取った(今どき論議の種になるのは、治療を拒否する患者の決断や痛みを除くための早期の死*3そのものよりも、積極的安楽死についてのみなのだが)。83%のブラジル人が、彼らがどのように死を迎えるかについての考えに、宗教が主要な役割を果たしていると回答した。この数字はアメリカでは50%、イタリアでは46%だった。

 日本では、宗教が意思決定に主導的な役割を果たすと答えた人はたったの13%だった。別の調査の結果では、日本人の大多数は自身を無神論者、もしくは無宗教と考えているようだ。しかし、『精神の安らぎ』は日本でも同じように重要視されている――それが死についての諸項目の中で2位につけているからだ。

 長く生きるか、穏やかに死ぬか、人々が重視するものの違いは、提供されている医療の質や、彼らの個人的な物事の受け取り方によっても左右される。90%のブラジル人が、彼らの医療システムを『まあまあ/不十分』と評価している。他の3国の数字は54〜61%なのに。ブラジルの憲法は全国民への無料の医療を包括的に保障しているが、システムはその理想を大幅に下回っている。既に3年にわたって足を引っ張っている不況が発生する以前でさえ、医療は頻繁に不安定になっていた。近頃では、リオデジャネイロを含む大都市で、資金難に陥った病院の廊下で死んでいく患者の姿が見かけられる。

 アメリカやイタリア、日本の学位を持った人々は、終末期のケアに関して、苦痛を短縮することに対し、延命を重視する議論が多過ぎると述べる傾向にある。教育を受けた人々にはまた、患者とその家族は、終末期の過ごし方を決定するのにもっと大きな役割を果たすべきと述べる人間が多い。

 約半数の黒人のアメリカ人と、それと同じくらいのラテン系の人々は、医療は死を防ぐことを軽視し過ぎていると答えた。この数字は白人では28%だった。他の調査によれば、マイノリティが病院で死ぬ可能性は白人よりも高い。裕福なアメリカ人は、収入の低い人間と比べ、家やホスピスで死ぬ傾向が強い。これら全てはひとつの苦い皮肉を示している。最も医療を必要としている人々がそれを受けられるのは、既に手遅れになった時だけなのだ。

 

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*1:カイザー家族財団によるレポート

Views and Experiences with End-of-Life Medical Care in Japan, Italy, the United States, and Brazil: A Cross-Country Survey | The Henry J. Kaiser Family Foundation

*2:ここで「何で医療費が葬式の話になるんだよ」と思ってしまってかなりグダった。てか他の国の人は葬儀の費用のことあんま考えないのか?

*3:尊厳死のこと