野菜生活

新鮮お野菜王国のマーチ

空軍楽団、マザー・グース、検閲

グレン・ミラーは100年ほど前に人気を博したトロンボーン奏者です。

『ムーンライト・セレナーデ』などを作曲して名声を得たのち、米国陸軍に入隊して第二次大戦に従軍しました。終戦の直前、乗っていた航空機とともに英仏海峡で消息を絶っています。

ところで、一介の音楽家である彼が軍隊で何をしていたかというと、主にマーチングバンド*1を率いていたそうです。ラジオ放送に参加したり、各地で演奏活動を行ったりと、人気音楽家だった彼の活動は宣伝や士気高揚に大いに貢献したといいます。

具体的にはこんな曲を作っていました。

youtu.be

That little seed planted itself inside Jerry Gray’s fertile imagination, and the good-sized came up with a good arrangement song, now by the crew chiefs as the all soldier orchestra offers Oranges and Lemons.

ジェリー・グレイの豊かな想像力に植えられた種子が、成長して素晴らしいアレンジの着想をもたらしました。楽団員は全員兵士のオーケストラが贈る『オレンジとレモン』です!

 

Oranges and lemons,
オレンジあるよ レモンもね
Say the bells of St.Clement’s.
鐘響かせる セント・クレメント

You owe me a penny,
お前には 貸しがあるんだ 1ペニー
Say the bells of Kilkenny.
鐘響かせる キルケニー

When will you pay me?
いつになったら 払ってくれる?
Say the bells of Old Bailey.
鐘響かせる オールド・ベイリー

When I grow rich,
大金持ちに なったらね
Say the bells of Shoreditch.
鐘響かせる ショアディッチ

When will that be?
一体いつに なるんだい?
Say the bells of Stepney.
鐘響かせる ステプニー

(I'm sure) I do not know,
知るわけがないよ
Says the great bell of Bow.
大鐘響かせる ボウ

Here comes a candle to light you to bed.
ろうそくの光で寝台へと導かれ
Here comes an angel you watch overhead.
天使が頭上に現れる

(以下繰り返し)

(リスニングで書き起こした歌詞なので、あまり正確ではないかも)

『オレンジとレモン』は広く親しまれたマザー・グースのひとつです。

ja.wikipedia.org

ところで、赤字の部分が原曲と少し違います(緑が原曲の歌詞)。

You owe me a penny,
お前には 貸しがあるんだ 1ペニー
Say the bells of Kilkenny.
鐘響かせる キルケニー

You owe me five farthings,
お前には 貸しがあるんだ 5ファージング
Say the bells of St. Martin's.
鐘響かせる セント・マーティン

ファージングは1961年に廃止された英国の通貨単位で、1ペニーの4分の1です。これだけなら単なる現代的な改変に過ぎませんが、少し気になるのはその後です。

「キルケニー」はアイルランドの地名です。『オレンジとレモン』の本来の歌詞ではここに教会の愛称が入るので、「キルケニー」は当地にある聖カニス大聖堂を指すのかもしれません。

ただし、原曲の『オレンジとレモン』で歌われているのは全てロンドンの教会なので、このような改変に至った理由はやや不可解といえます。まあ、これは書き手の勘違いかもしれず、実際にはロンドンのどこかの教会を指している可能性もあるので、詳しい人がいたらどこなのか教えてください。

Here comes an angel you watch overhead.
天使が頭上に現れる

Here comes a chopper to chop off your head.
処刑人がお前の首を落とすぞ

この改変も戦時中ならではのものでしょうか。

以前ジョージ・オーウェルについての記事でもグレン・ミラーの曲に触れましたが、当時の様子を知る手段としても音楽はなかなか有用であると思います。

831.hateblo.jp

 

*1:当時のArmy Air Force Band、後の合衆国空軍楽団の前身。

ロシア人エリートは休暇の過ごし方に悩む(翻訳)

匿名寄稿者

 

先日あったことですが、トルコか「アジア」で休暇を過ごすのに良い場所を知っているかとボスに尋ねられて、私は少しびっくりしました。今までそのような助言を求められたことはなかったし、一介の英語教師とロシアの裕福な仲買人の生活が重なるとも思えなかったからです。

 

住み込みの家庭教師や、私立学校の講師を勤めた経験から、私は多くの裕福なロシア人を知っています。モスクワ郊外の高級区画で知り合った親たちは、かつてはサントロペやアンティー*1で夏を過ごしていました。トルコは、彼らの一人の言を借りれば「普通の人向け」で、つまり貧乏な人の旅行先と見做されます。

 

ウラジーミル・プーチンウクライナで起こした戦争により、ロシア人エリートがお気に入りの旅行先に行くことはほとんど不可能になりました。ヨーロッパの空は彼らを締め出しましたし、ビザの取得は困難になり、クレジットカードはブロックされています。かつては夏学期になるたびに、子どもがギリシャカリブ海、マイアミに持っていく教育的な本は何だろうかと親たちが冗談交じりに訊いてきたものです。今年はビーチ・リーディングの軽口はありません。

 

イースターでは、私のボスは家族をドバイに連れて行きました。戦争が始まって一ヶ月経った頃でしたが、夏に行くには暑すぎる場所です。ボスはより魅力的な場所を探そうと決意したようで、プライベートジェットを貸し出している友人とよく電話で話し込んでいます。


休暇を心配するロシア人がいる一方で、徴兵の不安を抱える人々もいます。毎年春に行われる徴兵が今年も進行中で、13万人以上の人々が1年間の軍務に召集されます。建前上は18歳から27歳までのすべての男子が対象ですが、過去には学業を継続するため、あるいは単に賄賂を支払うことによって、健康上の問題を名目に徴兵を免れた人もいます。ロシア政府は徴兵をウクライナに送らないと言っていますが、この発表に懐疑的な人も多く、召集を免れる昔ながらの手法が通じないかもしれないという懸念が広がっています。



今年は召集プロセスが強権的になったという噂もあります。徴兵を担当する士官が、召集対象者の妻や母親と玄関先で口論を交わしている映像がいくつも出回っています。そのひとつでは、(真偽のほどは分かりませんが)女性が息子を連れ去ろうとする制服姿の男に立ち向かっています。何度も何度も彼女は叫びます。「誰の権限で?」

 

最近、私は友人のヴラディスラヴァとこの話をしました。「戦争なんてクソよ!」と彼女は言います。「私のテマは連れて行かせない」。ヴラディスラヴァの両親はボーイフレンドのテマを気に入っていないので、両親の印象を良くするためには早く妊娠しないと、と私たちはかつて冗談を飛ばしたものです。彼女はいま、そうしなければならないと醒めた口調で言いました。プーチンがテマを殺す前に。

 

人々は徴兵猶予の申請を始めています。ロシア国内にいて学生特例を申し出るより、海外留学の方が安全だと思われています。ヴラディスラヴァとボーイフレンドは、アメリカの大学院に出願しました。学費はどうするのかと穏やかに尋ねたところ、彼女はあっさりと「テマが書類を作ってくれる」と答えました。銀行の残高証明を偽造できるという意味かもしれません。

“Fuck this war!” my friend said. “They will not take my Tema”

 

私が話した中で、実際に街で徴兵担当官を見かけた人は誰もいませんが、それでもドアがノックされる恐怖から逃れることはできません。カザフスタンからリモート勤務することで徴兵を逃れようとしている人を2人知っています。実家の別荘に身を隠している人の話も耳にしました。可能な逃げ口に関する憶測が飛び交っています。ある知人は、会社で一定の人数を雇用していれば特例が認められると思う、と話していました。徴兵事務所が全土で襲撃に遭っており、ネット上では匿名の犯人を英雄視する声が上がっています。

 

徴兵を心配していない人たちも、執拗なプロパガンダに辟易しています。3月に遮断されたインスタグラムにアクセスするため、多くの人がVPNをインストールしています。つまり彼らは、外国のニュースメディアで攻勢に失敗したロシア軍の記事を読むことができるのです。汚職の横行が噂される国防省のセルゲイ・ショイグを皮肉ったジョークも多く耳にします。

 

また、制裁の影響も現れてきています。メニューは縮小され(サツマイモのような輸入品は姿を消しました)、人々は給料の遅配に不満を抱いています。私が教えている私立学校でも、生徒たちがカフェテリアの列に並ぶ間に、ヨーグルトの消費期限切れが何日後に迫っているかを当てるゲームをしています。

 

私のボスでさえ、多少の危機を感じています。数週間前に小石に当たって壊れたメルセデスマイバッハのフロントガラスをまだ交換していないのです。費用が高くつくのか、部品が手に入らないためかは分かりません。毎朝一緒にジムまで車に乗っていきますが、汚れひとつなく磨き上げられた車に入った巨大なヒビを、なるべく見ないように努めています。

 

一部の人たちの間では、戦争に賛成する空気が固まりつつあります。先日、友人の友人で、学校の理事を務める人物とバーへ出かけました。ちょっとしたデートのような雰囲気で、二人ともやや酔っていました。同年代の人々からロシア政府に対する不満を感じ取っていたので、グラスを合わせるときにわざと小さな声で「ウクライナに栄光あれ」と言ってみたのです。それが失敗の種で、彼女は「なぜウクライナの戦争狂(war-mongering)を支持するの?」と私を問い詰めてきました。

Instead of the universal diss “your Mum”, Russian kids now say “Are they against Russia?”

 

私は、そうじゃない――でも、国際法に定められたウクライナ自衛権を支持しているんだ、と答えました。すると彼女は、これはウクライナのエリート達によって行われる「選択の戦争」*2で、その証拠にドンバスから多くの人々がロシア国境を通って逃げてきている、と主張しました。「駅にいる避難民たちはロシアが侵略者なんて思っていないわ」。私はここで話題を変えて、冬には何千ものロシア人が食料や燃料なしで過ごすことになる、それはウクライナで得たものに値するのか、と問うてみました。「何が言いたいの?」と彼女は反撃します。「ヨーロッパだって凍りつくのよ」。



この種の硬化は、教え子たちの間でも見られます。戦争が始まったばかりの頃は、ウクライナのことが話題に上っても、子どもたちは話題を変えたり気まずそうな様子を見せる傾向にありました。でも最近、国旗についてクラスで話し合ったとき、11歳の子供がこう発言しました。「ウクライナなんて最低だ!」。なぜ4400万人もの人々を嫌うのかと尋ねると、憤慨した様子で「化学兵器を持っているから」と答えました。彼の論点の半分は正しいのです。ロシア政府は、西側諸国がウクライナの秘密研究所で大量破壊兵器を開発しているとずっと主張してきました(その兵器とやらは生物兵器で、化学兵器ではありませんが)


国営放送の言葉は、子どもの遊び場にも及んでいます。広く用いられる「お前のママ(your Mom)*3」という罵りの代わりに、今のロシア人の子どもは「ロシアに逆らうのか?( oni protiv Rossii?)」と言います。



私が教えている家族の乳母であるタチアナは、当初から子どもたちに戦争の公式見解を叩きこもうとしていました。彼女は先日、夕食を食べ終えない子どもに向かい、ウクライナ東部のロシア語話者たちは「ナチス」のウクライナ人に迫害されて、満足にご飯も食べられないのだ、と叱りつけていました。一家の母親がこれを聞きつけ、「タチアナ、やめて! この子たちはもう要らないのよ」と声を荒げました。タチアナは居間に引っ込んで、「教師どもがアメリカ人ばかりだから、子どもたちが学校でウクライナの真実を聞くことができないんだ」と不平を漏らしていました。

 

しかし、この忠実なプーチン支持者でさえ、ウクライナで戦いたくない人々の心情を受け入れているようです。その週の終わり、タチアナは宿題を予定通り終えなかった子供のひとりを叱責してこう言いました。「ちゃんと勉強して大学に入れないなら、どうやって徴兵から逃れるつもりなの?」■

 

寄稿者はロシアに住んでいます。詳細部分をいくつか変更しました。最初の記事はここから、1843マガジンの他の記事はここから読むことができます。

 

☟原文☟

www.economist.com

 

訳した人間による追記

これは以前訳した記事の続きです。執筆者も同一人物と思われます。

831.hateblo.jp

 

※追記(11/9)

記事の続編が出たので訳しました。

831.hateblo.jp

 

*1:どちらもフランスの高級リゾート地です。

*2:原文は"a war of choice"です 。これは「必要の戦争(a war of necessity)」と対比される概念で、イラク戦争などがこう呼ばれましたが、今ではあまり見かけなくなった分類です。

*3:"your Mom"は英語のスラングで、わずらわしい質問に対する適当な返事によく用いられます。

Urban Dictionary: your mum

私は職を失った。ウクライナの真実を伝える仕事を。(翻訳)

By Elena Kostyuchenko

戦争が始まった夜は、激しい夢の中にいるようでした。その時、私はタバコを吹かそうとキッチンにいたのです。一緒に暮らしている友人が、キエフが爆撃されていると言い出したので、「誰が?」と彼女に聞き返しました。

私はモスクワのノーヴァヤ・ガゼータ(ロシアで最も名高い独立系新聞)で働いています。早めにオフィスに着いたところ、既に全員が揃っていました。朝のミーティングで、同僚のイリヤアザールと私がウクライナに向かうことになりました。私の任務は南方の前線、つまりヘルソン、マリウポリ、ムィコラーイウ、オデーサについて書くことでした。

イリヤは陸路を選びましたが、国境でFSB(ロシアの秘密警察)に追い払われ、その後に老婆からハチミツを盗んだ門でロシアの地元警察に拘束されました。空路でウクライナに入ることも不可能でした。既に空港が爆撃され、旅客機の受け入れが止まっていたのです。モルドバへのチケットを手配しましたが、出立の準備をしていた矢先に空路が閉鎖されました。私はポーランドに行くことを決めました。ワルシャワに着いた私は、この戦争がいかに大規模で、国際的な関心を集めているかを知りました。私は2015年と2016年にドンバスにいて、同じ本物の戦争を取材しましたが――周囲の国への影響はまるでなかったのです。

ウクライナに入った時、私は一文無しになっていました。空にいる間に、制裁は私の銀行にまで及んでいたのです。携帯には全く電波が入りません。ウクライナがロシアの携帯電話をブロックしたからです。私は2人のウクライナ人男性に出会いました。彼らは妻子を国境に置いて、戦うために家に戻るところでした。2人にバッグとヘルメット、防弾ベストを調達してもらい、私たち3人は次の街までの25kmを夜通し歩きました。そこから、私は車でリヴィウに向かいました。


I thought that I had a lot of time. I don’t let myself make that mistake any more

何ひとつ現実の出来事とは思えませんでした。心理学者が現実感喪失(derealisation)と呼ぶ感覚で、実際にあったことをそれと感じられなくなるのです。初めての経験でした。戦争が始まってしばらくの間は、長々とした悪夢のようだったのです。悪夢を見ている時、この上なく恐ろしく、耐えがたい瞬間が来て、目を覚まさなければならないことがあるでしょう? 私はその時を待っていました。

リヴィウから最初の報告をしたため、電車でオデーサへと向かいました。親ロシア派が多い場所と聞いていましたが、そんな様子は全くありませんでした。オデーサ出身のジャーナリスト、タイエシャ・ネイデンコが言っていたように、爆撃が始まれば一切が明白になるのです。私は嵐の前夜の様子を記録するつもりでした――誰もが嵐が来ると考えていましたから。しかしこの嵐は船上の嵐で、他の混乱が起こる余地などなかったのです。

オデーサの記事を書き上げている時、編集者から連絡が入りました。「急がないと、サイトに記事を載せられないわ」 彼女は続けて、「法律が新しくなったのよ」。聞けば、ロシア国防省と矛盾する情報を発表したものは、最大で15年間を刑務所で過ごさなければならなくなるそうです。そして彼女は私に、もうウクライナの件は扱っていない、と告げました。

「どういうこと? 扱ってないって?」

「法律を見たでしょう? どうやって報じろというのよ」

「刑務所に入っても構わない」と伝えたら、こう返されました。「条文を読みなさいよ。あなたが収監されるだけじゃないの。あなたに関わった人が大勢逮捕されるのよ」 確認したところ、彼女の言うことが事実だと分かりました。記事に関わった人すべてが連行されるのです。校正者、編集者、デザイナー、会計士、人事部も、全員が。編集者は私に、とっとと記事を書き上げるよう告げました。法律が施行される真夜中までに記事を載せて、そのあと撤回できるように。

私の記事に加えられた変更は、戦争という言葉が「特別軍事作戦」に置き換えられたくらいでした。編集部は緊急ミーティングを開き、オンラインで支援者たち(私たちに寄付してくれる読者たちのことです)の決議を取ることにしました。ノーヴァヤは発行を止めるべきか、それとも検閲を受けつつ活動を続けるべきか? 90%以上の人が、続けるべきと回答しました。

私はヤロスラブリ(モスクワから300kmほど東にある街です)の貧困家庭に生まれました。働き始めたのは9歳の時で、床掃除の仕事をしていたんです。高校生の頃、地方紙の職業訓練で、記事を一本書くごとにお金が貰えると耳にしました。フロア清掃よりも、執筆の方が素敵な気がしました。

ヤロスラブリの新聞社であるシヴィルニ・クライ(Severny Krai)で一年働いたのち、私はノーヴァヤ・ガゼータに出会いました。初めて買った号にはアンナ・ステパーノヴナ・ポリトコフスカヤ(ロシアのジャーナリスト・人権活動家。2006年に暗殺された)による、二度のチェチェン戦争の間に育った子どもたちの記事が載っていました。ある男の子はラジオで流れるロシアの歌を母親に聴かせまいとしており、何故ならロシア人が彼の父親を連れ去って、鼻の無い死体として送り返したからなのでした。記事を読んで感じた気持ちは言葉にできません。それまでにテレビや他の新聞を読んでいましたが、ノーヴァヤの記事は私がチェチェンについて知っていると思っていた全てと異なっていました。学校の図書館にはノーヴァヤ・ガゼータが無かったので、バックナンバーの山を読むために地元図書館へ行く必要がありました。ロシアに広がる汚職がいかに巨大なものであるか、私は知りませんでした。人々が拷問を受けていることも。


ノーヴァヤ・ガゼータは1993年に、日刊紙のコムソモリスカヤ・プラウダを退職した記者たちによって設立されました。新聞は共同体に属しており、その所有者はオリガルヒでも政府要人でもジャーナリストでもありません。編集長は投票で選ばれます。編集会議も運営会議も投票で決まります。内規もすべて投票によって承認されます。そのため、私たちをコントロールするのは不可能であり、検閲もありません。その結果、非常に優秀なジャーナリストたちが質の高い報道を行っています。私は少女だった頃にこのことに気が付いて、ただ座ってひたすらに記事を読み耽っていました。そして、ノーヴァヤ・ガゼータに記事を書きたいと思うようになったのです。

 

Two nights in a row, I saw a van with an antenna parked outside the place I was staying. I moved

その時、私は17歳でした。最寄りの編集部はモスクワでしたが、引っ越すお金は持っていません。そこで、モスクワの大学を受験することにしたんです。寮に住むことができれば、いずれノーヴァヤで働けるはずです。モスクワ大学は名前を聞いたことがある程度でしたが、入学できました。寮費は年間500ルーブル(5ドルほどでしょうか?)*1。最初に、まともな服と携帯電話を買うために色々と雑用をしました。まとまったお金ができると、身なりを良くして電話を買い、ノーヴァヤにインターンを申し込みました。

オフィスで最初に見た人は、アンナ・ポリトコフスカヤでした。その時は彼女だと分からず、白髪でかなり背の高い、何やら凄そうな女性が早足で私の方に歩いてくると思いました。採用された後に彼女と話したかったのですが、私はシャイだったので、彼女のオフィスに忍び込んでリンゴを置いていました。するとある時、彼女に見つかって、親しげな口調で「こんにちは、リンゴを置いているのはあなたなの?」と話しかけられたのです。私は本当に恐怖してしまい、「はい!」と答えて逃げ出しました。私が採用されたのは2006年の4月でしたが、同じ年の10月に彼女は殺されました。

私はひそかに思い描いていました。いつか実力をつけて、優秀なジャーナリストになったら、彼女のもとに行って、こう言いたかったのです。「アンナ・ステパーノヴナ、ありがとう。この仕事を選んだのはあなたのおかげよ。あなたは私のヒーロー、どんなにお礼を言っても足りないわ」 しかし、すぐに彼女は殺されました。私はミスを犯したのです。時間はたっぷりあると思っていました。同じ間違いを繰り返したくはありません。


ノーヴァヤで働き始めるまで、私は自分がレズビアンだと知りませんでした。自覚するのに長い時間が掛かったのです。2011年の「なぜ私がゲイ・プライド・パレードに行くのか」*2という記事で、自分のことをカミングアウトしました。そしてガールフレンドとパレードに行ったところ、「ロシア正教の活動家」を自称する男にひどく殴打されてしまいました。頭を強く殴られて、あやうく聴覚を失いかけたのです。編集長のドミトリー・ムラトフは病院に見舞いに来て、「新聞は君のことを守るし、治療費も負担する」と言ってくれました。さらに、彼は私の代わりに声明を出してくれたのです。ロシアのメディアがLGBTの従業員を支持する声明を出すのは、きわめて異例のことでした。後にも先にもあんなことはありません。

 

最初に、私は犯罪事件とモスクワの市政について執筆していました。その後、取材のために各地を訪れるようになりました。カザフスタンのジャナオゼンで、ストライキを起こした油田労働者たちが虐殺された事件*3をいち早く報じました。プッシー・ライオット*4の記事を書きました。私は彼女たちを報じた最初のジャーナリストの一人です(メンバーの女性に要望されたのです)。2014年に起こった最初のウクライナ侵攻で、ロシア軍の関与を証明しました*5。ロシア政府は当時、いかなる軍隊も派遣していないと主張していました。

開戦時に私が派遣された理由は、戦場、それもウクライナで働いた経験があったからです。さらに、私が女性だったからでもあります。戦争の取材にあたっては、男性よりも女性の方が容易いのです。警戒されないし、怖がられることもありません。男性が行けないような場所にも行けます。

ノーヴァヤ・ガゼータのガイドラインでは、戦地で一度に二週間以上働いてはいけないことになっています。疲労が貯まると間違いを犯しやすくなるし、安全について誤った感覚を持つようになるからです。「今までに殺されていないのだから、今後も殺されないだろう」と思い込んでしまいます。結局、32日間頑張ることになりました。軍の検閲を受けながらです。全面的な干渉を受けて、仕事は台無しになりました。

ウクライナ南部のムィコラーイウに着いたとき、街はロシア軍に半ば包囲されていました。ずっと砲撃を受けていたのです。知事の発表によると、ロシア人たちが孤児院に出勤中の女性たちを撃ったそうです。詳細は不明でしたが、その後、ボランティアたちの本部で、生き延びた女性たちと運転手を車で拾ったという男性に偶然出会いました。一緒にいた人々の内、3人が殺されたそうです。彼女たちは最寄りの検問所まで歩き、そこで私が会った男性に拾われたのでした。彼が運転手の携帯番号を教えてくれたので、私は事件の全体について書くことができました。

2つ目の大きな記事は、地方検視官の事務所へ取材したものです。そこでは、戦争犠牲者の遺体が調べられていたのです。冷蔵室がいっぱいなので、遺体が小屋にも積まれていました。私は2人の姉妹に気が付きました。ひとりは3歳で、もうひとりは17歳。姉妹の写真を撮りました。年少の妹が、姉の体の上に載せられていました。すると、私たちを案内してくれた用務員が、姉妹をじっと見つめているのに気が付きました。その視線に何か個人的なものを感じたので、「この子たちを知っているの?」と尋ねると、「自分は彼女たちの後見人なんだ」との答えが返ってきました。

 

Our deputy editor had been abducted and severed sheep heads left in front of our offices

取材に出ているときは、感情をオフにします。スイッチを入れるのは、記事を書くときです。感情を殺して書けば、読者には何も感じられないし、理解もされません。その後、再び感情のスイッチを切ります。このやり方は、20年以上かけて自らに教えてきたものです。健康的ではありませんが、ウクライナのような現場で仕事ができるのは、このおかげです。

ムィコラーイウで、私たちは検閲が行われたときに読者が気付くことのできる仕組みを発明しました。考えたのは私です。編集者の一人が検閲官の役割を強いられるとしましょう。彼は、危険であるかもしれない言葉を赤でマークします。実際に言葉が消されると、それを < . . . > で括ります。削除した箇所が重要である場合は、括弧の中にさらに言葉を入れたり、イタリック体で婉曲的な説明を補ったりします。ただの”war”であってもマークが入ります。以上のようなルールに従う他は、法律が無かった以前と同じように記事を書いていました。

ヘルソンに着いたとき、爆撃や空襲はなかったものの、(ロシアに占領された)街には人の姿がありませんでした。ロシア兵たちは、活動家、ジャーナリスト、ボランティアを拉致していました。彼らはドンバスで戦ったことのある人を、ウクライナの秘密警察よろしく探し回っていたのです。かなりの用心が必要でした。小さなアンテナを装備したバンが二晩連続で宿の外に停まっているのを見て、私は宿を変えました。

かつて拘置所として使われていた建物の中に、秘密の刑務所があるのが分かりました。へルソンで誘拐された44人の名前を調べ、彼らが失踪したときの状況を記録しました。ジャーナリストのオレグ・バトゥールィン*6や、ロシア兵に拷問された沢山の人々に話を聞きました。

 

滞在は2日間の予定でしたが、3日目に通るはずだった道で戦闘が発生したため、脱出できなくなりました。翌日に、別の道から脱出を試みました。検問所を2つ通りましたが、3つ目の地点で、もしここを通れば、次の検問所で軍隊が私たちを撃つだろう、と告げられました。向かってくる車をすべて撃つよう命令されていると言うのです。私たちは引き返して、代わりに近くの村を通ろうとしましたが、地元の人に地雷が埋まっていると言われ、さらに別の道を試しました。ある時点になって、私たちは通行を拒絶された検問所の周りを通っていかざるを得なくなりました。後ろから撃たれるかもと思いましたが、そうはなりませんでした。

へルソンからマリウポリに向かいました。移動中、他のメディアで働く仲間からメッセージが届きました。「大変だろうが、頑張って。きっと何もかも良くなるから。心配しないで」この時、ノーヴァヤ・ガゼータの休刊を知りました。少なくとも、戦争が終わるまでの。

非常に動揺しました。ここ数年の間に起こったことを思えば、奇妙に聞こえるかもしれません。6人のジャーナリストが殺され、うち4人は私の在職中に亡くなっています。副編集長は拉致され、オフィスの前には羊の頭が置かれました。所属する記者は絶え間ない攻撃を受けており、国外に逃がしたり匿ったりして未然に防いだ件はさらに多くあります。政府は常にノーヴァヤの閉鎖を試みてきたし、私たちを外国のエージェントに仕立て上げようともしました。その全てを生き延びてきたのです。たとえ他の全員の口が塞がれようとも、私たちは打ち勝つだろうとすら考えていました。


If I go back, they’ll probably put me in jail. I need a few months to finish up what I want to do, to finish my book
車内で音楽が流れる中、私たちはマリウポリへ向かいました。古くロマンティックなソビエト時代の曲です。思わず泣いてしまわないか心配になりました。美しく、晴れ渡った春の一日でした。私たちは国全体を束ねる全国紙の一員として、最善を尽くしてきました。新聞の読者は実に多岐にわたります。地方の教師たち、シベリアに住むエベンキ族の猟師、大統領府の役人たち、議員、消防士、医師、そしてプーチン本人でさえも。実際に彼は私たちの購読者の一人なのです。私は彼らをずっと顧客のように考えてきました。彼らのために働いているのですから。今までずっと、彼らが私の存在する意味であり、目的だったのです。それを失うのは痛ましいことでした。無防備になった心地がしました。

私の記事は早々に撤回されるようになりました。最終号が出た翌日、検閲機関と検察庁より、ムィコラーイウから送った私の記事を削除するよう特別な圧力が掛かりました。その夜には、さらに指令が届きました。「へルソンからの記事も取り下げろ」。曰く、「この情報資料には、ロシア政府がウクライナで行っている特別軍事作戦の評判を貶める目的がある」とのことです。私に対する直接的な脅しだったのです。思わず涙が出てきました。1日だけ泣く時間を作ろうと決めて、その後はもう泣くことはありません。ただ、マリウポリにも行けずじまいでした。

ウクライナにいる間は、空襲に備えて服を着たまま寝ていました。でもウクライナを去ってから、私はもっと寝付けなくなりました。空爆を受けて避難する悪夢を見るんです。マリウポリの役人として30000人の子どもたちを避難させねばならない立場になった、非常に生々しい夢も見ました。その男になり替わって重大な決断を下しながら、内心では泣き叫んでいたのを覚えています。

ポーランドに戻ったとき、私はフェイスブックにメッセージを投稿し、ロシアに帰るつもりだと書きました。私はロシアが好きです。プーチンが愛する以上に愛しています。でも帰ったら、たぶん牢屋に入れられるでしょう。だからあと数か月、私のやりたいことを終えるための時間、本を書くための時間が必要です。そのあとで、私は帰ります。今、私にはすべてがはっきりと見えていて、残された時間はわずかしかありません。ひとまず脇に置いておく猶予などないのです。

As told to and translated by Bela Shayevich, a writer in Iowa

 

☟原文はこちら☟

www.economist.com

 

訳した人間による追記

Elena Kostyuchenko(読み方が分かりませんでした・・)は、ロシアでは名の知られたジャーナリストだそうです。Wikipedia英語版には彼女のページが存在します。

en.wikipedia.org

Kostyuchenkoによる取材記事は開戦後に取り下げられましたが、ネットには修正前のものが公開されています。

holod.media

記事に書かれている以外にも、体を張った調査報道をする人物のようです。

snob.ru

記事の終わりで触れられている本が発売されたら、読んでみようと思います。たぶん英語には翻訳されると思うので。

なお、訳した人間はロシア語が一切読めないため、ロシア語のリンク先を厳密に確認したわけではありません。勘違いなどあればご一報ください。

 

*1:流石にそんなに安くはありません(まだ)

*2:彼女のブログ記事は以下のURLです。1万を越えるコメントが付いたそうです

Почему я сегодня иду на гей-парад - Искренность — LiveJournal

*3:ジャナオゼン虐殺

Zhanaozen massacre - Wikipedia

*4:プッシー・ライオット - Wikipedia

今回の戦争を機に、メンバーの多くが国外に脱出したそうです

*5:以下のニュースを指しているのかな?と思います。リンク先の画像に注意

«Мы все знали, на что идем и что может быть» Интервью с российским танкистом, который вместе со своим батальоном был командирован сражаться за Дебальцево

*6:国境なき記者団(RSF)によると、Oleg Baturinはへルソンでロシア兵に拉致された後、8日間拘束され拷問を受けたそうです

Ukrainian journalists kidnapped by Russian troops in occupied areas : NPR

ロシア人エリートは戦争に関心を持たない(翻訳)

匿名寄稿者

ロシア人の実業家たちについて、彼らの子女を教育しながら気付いたことですが、実業家という人種は多くを語りません。ある家族とひと夏を過ごしたのに、雇い主の職業が最後まで分からなかったことがありました。ほとんどのことは、古めかしく無愛想な魔法と技量によって隠されているのです。

でもロシアがウクライナに侵攻したとき、その装いに小さなひびが入るのを目にしました。いまのボスはモスクワ郊外の高級住宅地に住む仲買人です。毎朝仕事が始まる前、彼の運転手はメルセデスマイバッハで私たちをジムへと連れていきます。ジムで行う厳しいトレーニングについて、いつも道中の10分ほど熱心に語り合っているのです。そして車が停車するや否や、ボスはフロントへと駆けていきます。

2月24日の朝のこと。ボスと車庫で会った時、辺りはまだ暗いままでした。私たち2人とも「特別軍事作戦」が発表されたニュースを見ていました。クレムリンはずっと、ロシアが今にも隣国に侵攻するだろう、と警告するアメリカを嘲笑っていました。準備ができていた人などいません。ボスは車に乗り込むと、足元の携帯電話に目を落としながら、戦車が国境を越えていく映像を黙って眺めていました。ジムに着いた後も、彼はさらに10分間も座っていました。それほど長くじっとしているボスを見たことがありません。

 

何度も何度も耳にした。「なぜ?」と

私自身、少しばかり呆然としていました。この国から追い出されるのではないかと不安になり、そしてウクライナよりも自分自身を案じていることを後ろめたく思いました。いつも通りの授業を行い、早い夕食を摂りました。ゴールドリーフがトッピングされたポークパイ。子どもたちと、乳母のタチアナと一緒にです。

タチアナは背の低い、温厚な中年女性です。彼女はいつも、多少の誇りとともにこう言います。自分はロシアの外に出たことはない。演劇とクラシックを通じて心で旅が出来るなら、そうする必要はないのだと。私の授業はしばしば、彼女の演奏する可愛らしいプッチーニのアリアで中断されます。タチアナは子どもたちの嘘を見抜くのに長けている人ですが、ロシアのテレビを見ているとき、その勘は鈍ってしまうようです。

その夜、タチアナは夕食の間にニュースを見ようと言い張りました。彼女は絶えずウクライナ情勢に話を戻そうとして、子どもたちに無視されていました。食事のあと、彼女はひとりひとりを個人授業に連れて行きました。

内容が少し聞こえてきました――「ウクライナ政府とナチスのゼレンスキーは、ドンバスでロシア人の兄弟を殺しているのよ」。公式発表はわずか数時間前だったのに、私はタチアナの呑み込みの速さに驚きました。テレビ局のキャスターたちと同様に、タチアナはロシアの行動を正当化しようと、1930年代のヨーロッパでファシズムが生まれたことを説明していました。そして、続いて起こった世界大戦のことも(最年長の子以外には、恐ろしい詳細は割愛していました)。その後、私は子どもたちが自由に話せるよう、英語で彼らがどう思ったのかを尋ねてみましたが、彼らは肩をすくめました。ある子は「あんまり聞いていなかった」と答えましたが、これが外交上の配慮であったのかは分かりません。

さらに無視できなかったのは、インスタグラムです。一番年少の子は、授業の合間に私と一緒にスケートボードやバイクのトリックの映像を見るのです。戦争が始まった最初の週の晩、教え子のフィードにロシアの戦車が民間人の車を轢いているクリップ*1がポップアウトしました。彼は息を呑んで、携帯電話を傍らに置き、黙ってエッセイの次の段落に取り掛かりました。彼が休憩を切り上げたのは、その時だけでした。

 

映像ではロシアの戦車が民間人の車を轢いていた。彼は息を呑み、携帯電話を置いた。

私が一緒に暮らしている家族以外にも、事態を受け入れるのに苦労している人々がいました。大半の人は、自分が何を考えてよいのか分からなかったようです。街中のカフェやバーで交わされる会話は、あたかも全てがウクライナの話題のようでした。何度も何度も耳にしました。「なぜ?」と。

数日後のジムでは、私のボスはいつもの自分に戻ったようでした。ボクシングのセッションで、ボスは私のパンチが良くなっているとトレーナーに話していました。「もうすぐドンバスで使い物になるぞ!」と彼は冗談を飛ばし、トレーナーは薄く笑いました。

ボスがどうやって立ち直ったのかは判然としないものの、戦争についての公式見解が彼や私の周囲に浸透しつつあるのが分かりました。インスタグラムは、検閲かアルゴリズムのせいか分かりませんが、私の教え子にショックを与えたような映像を流さなくなりました。さらに数週間後、政府はサービスそのものを排除しました。

家にいる他の人と違い、私は西側のメディアを読んでいるため、制裁に関する一連の報道を目にしていました。もちろん、家族の私的な会話に立ち入ることはできませんが、私が目撃した制裁の唯一の影響は、子どもたちの一人が兄にVPNを使わせてほしいと頼み込んでいたことです――彼女はアクセス元をアメリカに設定して、アップルペイで支払いをしたかったのです。私の知る限り、この一家が直面した最大の不便は、休暇をフランスではなくドバイで過ごさなくてはならないことでしょう。

私の知る別の裕福な一家では、息子たちが徴兵されるのを恐れて、アメリカかヨーロッパの大学に進学させようと躍起になっています。願書を読んでほしいという依頼がたくさん舞い込みました。ある人は、祖父母がウクライナ人だと書けば選考を通過しやすくなるのかと私に尋ねてきました。分からない、と返答しました。

 

一家が直面した最大の不便は、休暇をフランスではなくドバイで過ごさなくてはならないことでしょう。

カフェでの会話は、混乱からシニカルなユーモアへと変わりました。状況は人々の購買力に影響を及ぼしていますが、少なくとも都市部の中流層にとっては、まだ破滅的な状況ではありません。別の日に友人たちと寿司を食べた日のことです(ほとんどは裕福な大卒)。一人がこんな冗談を飛ばしました。「給料をルーブルで貰おうが関係ないな。外貨が要るのは靴下を買う時だけで、もう春になるし」。あるいは、女性を言いくるめて本番まで漕ぎつけるのが容易になったというジョークも流行っています。後部座席で下着を脱いだ女性が、運転手にこう尋ねます。「あなた、本当に家に砂糖があるのね?」

閉店した店のことも話題に上ります。人々を最も動揺させたのは、h&mでしょうか。グローバル経済からの孤立も、それ自体が冗談の種になりました。アップルが閉店した後、人々はこう言い始めました。「あなたは今、ロシアで最新のiPhoneを手にしている」。ロシアの銀行システムに課された制裁を回避するために、どのVPNを使えばよいかも盛んに議論されています。制裁がなされた理由の方は、決して語られませんが。

好奇心の欠如について、友人たちを悪く思わないように努めています。政府の責任を追及するよりも日々の生活に関心を持ちたがるのは、ロシア人に限った話ではありません。しかし、コメディアンや有名人が戦争についてひたすら同じ言葉を繰り返すのを見るのは辛いものです。私は多くのロシア語を彼らから学びましたし、何人かはほとんど友人のように感じているのです。

ロシアのテレビでお気に入りだったのは、毎年大晦日に放送される「ヨルキ」という映画です。これはラブコメディーで(「ラブ・アクチュアリー」のように、タイムゾーンを横断した複数の場所でシナリオが進行します)、B級の有名人を起用して毎年新しい続編が作られます。12月31日に、友人たちとキャビアを食べながら、ほろ酔い気分でこの映画を見るのが好きなんです。コメディアンのセルゲイ・スヴェトラーコフは「ヨルキ」のレギュラーです。スヴェトラーコフはかつてロシアでの暮らしを二等客車のトイレに閉じ込められるようなものだと言っていましたが、戦争が始まってからはモスクワを去った他の有名人たちを批判しています。ポリーナ・ガガーリナは「ヨルキ」の音楽にも参加した歌手ですが、彼女は3月に行われたプーチンの集会で歌いました。

 

少し時間が掛かりましたが、今やほとんど全員が台本に忠実です

これがインフルエンサーになると、様相はさらに悪くなります。面白おかしいTikTokクリップで有名になったヤング・グプカ(私の教え子は彼のファンです)は、ウクライナの平和維持軍への支持を表明する、愛国的な声明を読み上げる動画を投稿しました。少し時間が掛かりましたが、今やほとんど全員が台本に忠実です。

2月24日以降、はっきりと戦争に反対している人と会話したのは2回だけでした。1度目は、侵攻が始まって数日後に乗ったタクシーの運転手とです。彼はロシア人がウクライナ人に銃を向けるなど信じられない、歴史を共にしているのに、と語りました。私が、ロシア人は2014年のクリミアでもウクライナに銃を向けたではないか、と指摘すると、彼は「それは違う」と理由を述べずに断言しました。そして「ビッグボス」ことウラジーミル・プーチン大統領と彼の決断への非難を続けました。

2度目の会話は、侵攻直後に会った床屋とでした。「恐ろしいことだ」と彼は言いました。「誰も望んでいない!」。次に会ったとき、彼は情勢が収入に影響しないか、住宅ローンの返済のために働く時間を増やさなければならないのかを心配していました。彼はプーチンに責任を被せました。「ヒマな赤ん坊が構ってもらいたがってるんだ」。3回目のやり取りでは、床屋も観念したのか、冗談めかした口調で「車の輸入が止まってるから、俺のキアも今やメルセデスみたいなもんだな」と口にしました。冗談を言いたくなる衝動は、戦争と同じく、終わりがないもののようです。

 

寄稿者はロシアに住んでいます。詳細部分をいくつか変更しました。

 

☟原文☟

www.economist.com

 

※追記(6/12)

記事の続編が出たので訳しました。

831.hateblo.jp

 

*1:記事内で特にフォローされていませんが、該当の映像は以下のソースで触れられているものと思われます。

www.snopes.com

映像自体はフェイクではないようですが、フランス24の検証によれば、この戦車はウクライナの車両とされています。

戦時下のロシア人たち(翻訳)

四月のはじめ、ウラジーミル・ジリノフスキー――極右*1のポピュリストであり、過去20年間にわたってロシア政府の主要なポストにあった75歳の遺体が、モスクワ中心部にある円柱の間*2に運ばれ、人々が弔問に訪れた。69年前にはスターリンが同じ場所に横たわり、ロシア人に対する最後の粛清の最中に突然死した指導者に対し、多くの民衆が別れを告げたのだった。

 

ジリノフスキーの葬儀はソ連時代を連想させたものの、彼を見ようと殺到する群衆の姿はなかった。遺体はアウルス・ラフィエに載せられて円柱の間に運ばれた。これは限定生産された黒い霊柩車で、ロシアの新たな高級車メーカーとして話題になったアウルス自動車が製造している。ロシア語でラフィエは「霊柩車」を意味するが、私のように80年代の前半を思い出せるような古いロシア人にとって、この言葉は暗い冗談を想起させるものだ。ブレジネフ、アンドロポフ*3チェルネンコ*4といった年老いたソビエトの指導者が相次いで死んだとき、その様子は「ラフィエのレース」と呼ばれていた。

 

ウラジーミル・プーチン大統領の身内も新たな「ラフィエのレース」に直面しているのだろうか? 現在、クレムリンにいる多くが、かつて末期ソビエトで同じ立場にあった者たちの年齢に近づいている。プーチンは10月に70歳になる。FSB長官のボルトニコフと安全保障会議*5の書記パトルチェフはともに70歳だ。外相のラブロフは72歳である。ブレジネフの老いた政治局(Politburo)がアフガニスタンに侵攻した時と似た様相であり、長老たち*6が決定したウクライナ侵攻はロシア――特に若い世代にとっての災厄となった。

 

現時点では、プーチン政権はロシアの世論を味方につけ、人々を欺いているのと同様に、ロシアが他国よりも優れているという考えに基づいて、ロシアを自立させ、自ら孤立させ、ならず者の膨張主義*7国家に変えられるのだと自らをも欺いているのかもしれない。しかし中長期的には、プーチンが「特別軍事作戦」と主張する代物は、ロシアの政治的、経済的、倫理的な基盤を破壊する運命にあるように見える。

 

AT WAR WITH THEMSELVES
プーチン政権はロシア国民を敵国のウクライナ人と同程度に扱っているようだ。その証拠に、今ロシアであえて他人と異なる考えを持とうとする人間には、公的・警察権力による圧力が掛かり、全ての独立系メディアと研究機関は閉鎖もしくは追放され、抗議運動の参加者や愛国的な熱狂に異を唱えた人までもが迫害を受けている。ウクライナ人は得体の知れない特徴のない人々の集団として表現され、クレムリンに従って非ナチ化されなければならないとされているが、このプロセスが実際には「非ウクライナ化」を意味していることは、今やプーチンの宣伝担当者が公に認めていることである。しかし同時に、ロシア国民は指導者に盲従する思考停止の大衆であるとも見做されている。さもなければ、行政による処分や拘留、社会的な追放に見舞われるのだ。ロシア軍には頑強な精鋭だけでなく、数万人の非常に若い徴兵が含まれており、義務のために従軍しているが、彼らは大砲の餌となるために、何の準備もなしに虐殺の場に駆り出されているのだ。プーチンの不合理な考えにより、ロシアのティーンエイジャー達は自分たちの命を支払わされている。

 

ここ数週間の演説でプーチンは、国家の団結を壊しかねない「反逆者」と「第五列*8」への「解禁期*9」を宣言した。このような悪漢を一掃するために「社会の自浄作用」を求めたのだ。演説の後には告発が相次いだ。学生たちが教師を非難し、逆もまたしかり――同僚同士もお互いを密告し合った。ロシアの大統領はまた、彼自身の批判者に対する蛮行を奨励した。モスクワにある独立系ラジオ放送局「モスクワのこだま」は侵攻開始直後に当局に閉鎖され、編集者のアレクセイ・ベネディクトフの自宅前には豚の頭と反ユダヤ的な絵が置かれた。昨年のノーベル平和賞を受賞したノヴァヤ・ガゼータ紙の編集長ドミトリー・ムラトフは、モスクワを発つ列車の中で有害物質のアセトンが混ぜられた赤い染料を掛けられた。

 

プーチンが「自浄」を訴えたあと、ロシア人はお互いを非難しようと躍起になった。プーチンは国家を引き裂いた。プーチンの敵対者も支持者もいっそう過激化した。もちろん、戦争に反対する人々の多くはプーチン批判者および若年層である。ある兵士たちはウクライナで戦うことを拒否し、命を落とした兵士の家族はプーチンに激怒している。若い人々は即時逮捕や失職・放校のリスクにも関わらず、勇敢にも路上に出て戦争に抗議している。しかし今のところ、ロシア人の多数派は明らかにプーチンを支持しているようだ。昨年行われた世論調査によれば、大多数のロシア人が戦争を恐れており、実際に開戦するとは考えていなかったにも関わらず、今日の一般ロシア人たちは戦争ムードに突入しているようである。

 

もちろん、リーダーが一人しかいない体制で、実質的に自由なメディアが存在しない場所の世論を調べることは困難だ。しかし、ロシア人が世界の敵意に気付いており、多くがプーチン同様に苦々しい思いを抱いていることは明らかである。独立系組織のレバダ・センターによる世論調査を見てみよう。批判者の主張とは逆に、回答拒否者は過去の調査と比較して多かったわけではないし、調査は例年通り電話ではなく対面で行われている。結果は次の通りだ。81%の回答者が「特別軍事作戦」を支持している。その内の53%分は「断固とした支持」であり、23%分は「どちらかというと支持」しているとのことだ。別の数字も注目に値する。「特別軍事作戦」を巡って、過半数の51%が「ロシアの威信」を感じる、と回答している。そうでない人々(多くは若年層である)は、その心情を「不安」「恐怖」そしてシンプルに「衝撃」だと表現している。

 

また同時期のレバダによる別の調査によると、3月のプーチンの支持率は83%に急上昇し、前の月から12%も上がっている。支持率の高まりは2014年のクリミア侵攻の際にも見られたが、当時の空気感は全体としてはもっと穏当なもので、プーチンに反対した者が隣人に吊るされるようなことはなかった(それでも、当時の演説でプーチンは彼の政策に反対する者は誰でも「国家反逆者」と決めつけていた)。さらに、今のロシアがウクライナでしていることとは対照的に、クリミア併合を流血なしに達成した*10クレムリンが「再統合」と呼んだ出来事は、ロシアの偉大さを回復し高めるものと見なす向きが多かったのである。

 

今日の一般的なロシア人が見せる戦争への反応は、おおむね好戦的なものといえる。それはあらゆる悪いニュースを、「ロシアが間違っているかもしれない」という感覚とともに遮断する無意識の努力に支えられている。当局を恐れるあまり、人々は野蛮な侵略戦争に抗議できないだけでなく、プーチンのロシアが恐ろしいことを行ったと自分自身の中でさえ認めることができないのだ。悪の側に立つのは恐ろしいことである。VPNを使ってクレムリンのインターネット規制を逃れ、ウクライナから届く地獄のような画像やビデオを見るのは恐ろしいことである。多くの人にとって、公的なプロパガンダを受け入れ、自分たちが善の側にいると知らされる方が容易いのである。「ウクライナ人は我々を攻撃しようとしていた」「我々は予防的攻撃を実施したに過ぎない」「西側が支援するナチス政権から兄弟国の人々を解放している」「我々の軍隊が行ったとされる残虐行為の報道はすべて捏造である」。レバダ・センターの調査に参加したある女性はこう言った。「もしBBCを見ていれば、違う風に考えたかもしれません。でも私はBBCを見ません。今見ているもので十分だからです」

 

MOSCOW SYNDROME
プーチンは追い詰められているが、それは国家も同じだ。ロシア人は集団的なストックホルム症候群を体験していて、官憲よりも取り締まられた人々に共感している。また政治家たちも、自分たちがクレムリンに繋がれていることを自覚しつつ、次に何をすべきかを巡って意見を対立させている。プーチンの首席補佐官ウラジーミル・メジンスキーやクレムリンの報道官ドミトリー・ぺスコフのように、和平締結に好意的な者もいる。他方で、チェチェン首長のラムザン・カディロフのように、「最後までやり通す」と言って(最後とは何だろうか)交渉自体が一種の裏切りであると考える者もいる。このような意見の幅は国全体で見られ、ある人にとっての「勝利」がロシアに新たな領土を安堵する平和条約を意味することもあれば、別の人間にとってはウクライナ全土を征服するためにあらゆる手を尽くす永久戦争を意味することもある。

 

プーチンの支持者たちは「愛国心」とやらに酔いしれて、戦争を批判する者は誰であろうと攻撃し、なぜ戦争に抗議するのか理解できないと主張している。レバダによる別の調査では、32%の回答者が「抗議者は金を貰っていると思う」と述べていた。ウクライナナチスから解放するのに反対する数千人もの人々を、他にどう説明するっていうんだ? 自由と将来を危険に晒しながら路上で虐殺に抗議する数千人の人々が、誰からどうやってカネを貰ってるかは知らないけど、と。このような非論理的な主張は真新しいものではない。近年、ロシアにおける主流強硬派の一部は、政治的抗議者について上記のような見解を述べている。

 

ロシア人にとって「ファシズム」とは、何か悪いものを表すのに長年用いられてきた便利なラベルだ*11ソビエト時代には「ファシスト」や「報復主義者*12」がアメリカやドイツのあらゆるところで「頭をもたげた」とよく言われていた。より雑に使われる言葉として「ナチス」も時々ある。1967年の第三次中東戦争の後、USSRイスラエルと外交関係を解消した時、イスラエル人はナチだと書きたてられた。プーチンにとって、ナチスの亡霊というのは国家を教化(indoctrinate)し、ウクライナの存在する権利を否定する方便なのだ。プーチンが政策を正当化するには第二次大戦の歴史を必要としたが、ロシア人は彼の所業がソビエト後の世界の基盤を破壊していることに気付いていない。すべては大祖国戦争(ロシア人は第二次世界大戦をこう呼ぶ)でファシストを打倒した上に築かれたのに、しかしウクライナ人、そして世界中の多くの人の目には、ロシア人自身がファシストのように振舞っていると映るのだ。自国の残虐な軍事侵略を正当化するのに、もはや彼らはヒトラーと戦った経験を持ち出すことはできない。それどころか、彼らの姿は第二次世界大戦当初のドイツそのものだ。これがプーチンのやったことだ。ロシアはもはや大祖国戦争の勝者ではありえず、歴史の正しい側にもいない。

 

ロシア人たちも心の底で、もはや逃げ出せないことを察し始めている。まだ人口の大半は理解していないが。もちろん、今年の5月9日にある戦勝記念日(ロシアで最も大事な国家の祝日のひとつ。第二次大戦の麗しい結末を祝う)において、プーチンが1945年におけるソビエトの勝利を、理性を打倒した自らの勝利と同一視するであろうことは疑いようがない。5月9日までに、プーチンウクライナでの勝利を具体的に説明する言葉を見つけねばならないだろう。そして勝利は1945年のような説得力を持たねばならない。しかし、多くのロシア人は既に、ロシアが敗北したヒトラーと同じことをしている様子を目の当たりにしているようだ。特別軍事作戦の象徴となったZは、ファシズムへの勝利の象徴である聖ジョージのリボンを折り曲げた形で描かれることが多い。

 

しかし現実には、多くの人々が閉塞感に囚われている。「西側はこれ以上ないほど敵意を向けてくるが、ロシアには何も残されていない」といった風に。由緒ある軍隊の最高司令官であるプーチンを支持するが、心の底では大統領が人々を後戻りできない地点に連れていったことを理解し始めている。ロシア人にとっては馴染み深い感覚である。1863年、偉大な革命思想家であるアレクサンドル・ゲルツェン*13はその心境をこう書いた。「ロシア人の立場は、果てしなく困難になっている」と彼はイタリアから書き綴っている。「西側ではますます外国人らしくなるのに、故郷で起こっている事態への憎しみは募る一方だ」。当時も今も、そのような憎悪ははっきりとした形を結ぶことはなく、むしろ秘密めいている。ロシア人は自分でもそれを認められない。

 

RUNNING AWAY FROM REALITY

良心や自覚があったり、手に職を持っていたりと、行動するための条件に恵まれた多くのロシア人は、自ら職場を辞す*14ことで無言の抗議をしたり、国から去ったりしている。正確な数を算出するのは困難だが、国外に出た人々の大半は、一時的にそうしているのだという。彼らは戦争に参加せず、ロシアに変化が訪れるのを待っているが、異国に永住するつもりはない。迫害を恐れてというより、ロシアの未来が信じられず、現政権に嫌気が差してそうしているようだ。結果として、ロシアからは近代的で多様な経済を目指す拠り所とされた専門職層が流出しつつある。この動きが長期化すれば、ロシアの人的資本の根幹にダメージが入るだろう。そして、残された人々は西側の価値観と自由主義に対してより閉鎖的になるだろう。

 

来たるべき経済的破局に向けて、政府は十分な現金と報酬があれば、政権を支持してくれるであろうロシア人に対して働きかけようとしている。その対象は、変動する社会保障費と給与で忠誠を買い、プロパガンダをやっておとなしくさせねばならないロシアの広範な大衆である。しかし制裁の影響が広がるにつれて、この試みは大幅に高くつくようになり、人々を支えるための資源は干上がりはじめた。ロシアが石油とガスの販売能力を失えば、この傾向はより顕著になるだろう。

 

時間が経つとともに、戦争の影響が蓄積されれば、プーチンに対する大衆の信頼が揺らぐかもしれない。軍事作戦と大規模な宣伝組織が全速力で稼働し続ければ、社会的な結束は瓦解を始め、これまで経済を支えてきた力は機能しなくなるだろう。ただ今のところ、ロシア人は不満を敵に投げかけるだけで満足しているようだ。「悪いのは誰なのか?」という問いをぶつけると、彼らは「アメリカとヨーロッパだ」と答える。

 

プーチンは行き詰っているし、ウクライナと残りの世界も苦しんでいる。しかし長い目で見れば、これはロシア人にとっての災難でもある。ロシアは世界の文化に多大な貢献を果たしてきた。多数の作家と思想家を輩出し、3名のノーベル平和賞受賞者を生んだこの国は、これから長きにわたってウラジーミル・プーチンとともに語られることになる。西側諸国は、月並みな表現になるが、プーチン体制とロシア国民が同一の存在ではないことを理解すべきである。そのような意識は、プーチン後のロシアを構築するにあたって重要となるだろう。そうでなければ、ロシアは世界にとって敵対的な飛び地と見做され、世界から遠ざけられることになる。だが究極的にはロシア人たち自身の手によって、ロシアがプーチンの作った国以上の存在であると証明される必要があるだろう。

 

☟原文☟

www.foreignaffairs.com



(訳した人間による追記)

ウクライナ侵攻が始まってそろそろ二か月が経ちますが、戦地のニュースと違いロシアからの情報は多くありません。ある意味では仕方のないことですが、ロシア人のことを「得体の知れない特徴のない人々の集団として」形容する意見も多くある現在、たまにはこのような文章がネットに転がっていてもいいと思い勝手に訳したものを載せます。

 

著者のアンドレイ・コルシニコフはロシア出身のジャーナリストです。ロシアの複数のメディアで働いたのち、現在はカーネギー国際平和基金のフェローを務めています。

*1:原文はultranationalist。正確にはウルトラナショナリストとか超国家主義とか呼ばれますが、面倒なので極右にしました。

*2:モスクワの労働組合会館の中にある柱がいっぱいある場所です。

*3:ユーリ・アンドロポフ - Wikipedia

*4:コンスタンティン・チェルネンコ - Wikipedia

*5:ロシア連邦安全保障会議のこと。プーチン大統領の直属機関で、国家安全保障に関わる政策を決定します。

*6:原文はgerontocrats。長老支配における支配的地位にある者のことです。主に共産主義体制を指すのに使われます。

*7:膨張主義(expansionism)とは、一般的には国家の領土的拡張を志向する運動ないし政策を指します。

*8:第五列とは、味方の中に存在する敵性分子のこと。スペイン内戦に由来する言葉です。

*9:原文はdeclear open seasonで、元々は禁猟期を終え解禁を宣言するという意味の表現ですが、open seasonは転じて特定の人々が不当に扱われるような状況を指すこともあります。

*10:念のため追記しますが、クリミア併合が流血なしに達成されたという理解は厳密には事実と異なります。

2014年クリミア危機 - Wikipedia

*11:余談ですが、ファシズムというラベルの乱用は、ジョージ・オーウェルによれば、第二次大戦の頃からあらゆる陣営で起こっていたことだそうです。

ファシズムとは何か

*12:原文はrevanchist。これは「失地回復論者」とも訳されますが、ドイツには当てはまらない気がしたのでこう訳し・・・東プロイセンのことですかね?

*13:アレクサンドル・ゲルツェン - Wikipedia

*14:原文はvoting with their feetで、これは不作為によって抗議の意を示すという意味の表現です。

Wikipediaで「一覧」を含む興味を惹かれた記事の一覧

タイトルそのまま。分類は適当です。気が向いたら追加する。

ページ作成日が最新のものからソートして1300件ほど閲覧した上でのリスト。(21年3月13日現在)

言うまでもないことですが、採用基準は独断と偏見です。

 

 

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火炎瓶で戦車を燃やすには ウクライナ志願兵と巡る景色(翻訳)

タンクローリーの運転手、機械工、病院経営者は戦いに備える

 

ウクライナの北部、ポーランドベラルーシの国境に挟まれたリュボームリは、屋根の低い家が集まった小さな街だ。灰色の空の下は曇り模様だった。商店の多くは戦争を理由にシャッターを下ろし、人々はATMに並んでお金を引き出していた。明るい青色の玉ねぎドームと、教会の金色の尖塔が、枯木にカラスの憩う夕暮れを前にそびえ立っていた。

 

男が数人で市庁舎を警備していた。まだら模様の迷彩服に、結成して間もない地域防衛団の青い腕章を巻いている。エントランスに入ると、ホールには亡くなった兵士を偲ぶポスターが貼られていた。2014年にロシアが占拠したクリミアで戦った人々だ。1万の市民と14の村に囲まれたリュボームリの市長、ロマーン・ユスチュクは、街が行っている備えについて説明してくれた。新たな守備隊に加わる志願兵を登録し、戦火から逃れてきた人々を受け入れる態勢を整えているという。

 

学校は閉まっているが、近隣の道路を監視するボランティアに食事を提供するため、学食は稼働しているという。「なるべくいつものように暮らそうとしていますが、全ては戦争と国防に注力されています」と市長は言う。食料やお金、燃料の調達は、まだ困難な方ではなかった。目下必要なのは軍事用品だった。特に防弾ベストは、軍に加わり前線に向かう人々の基礎訓練に欠かせない。

 

市庁舎オフィスの椅子は壁に押しやられ、衣服やブランケット、おしめ、包帯、医薬品や医療用手袋を詰めた段ボールが部屋中を満たしていた。これらの品々は必要に応じて東部の包囲された都市に送られることになる。市長にとって、このような業務は通常の関心から程遠いものだった。1月の彼は、町の再舗装と新たなスポーツ施設の建設を巡って、計画を検討する市議会の議長を務めていた。遠い昔の出来事のようで、今や思い出すのに苦労するようだ。「もうカレンダーは使っていません」と彼は言う。「ただ戦争が起きてからの日々を数えるだけです」

 

「もうカレンダーは使っていません」と彼は言う。「ただ戦争が起きてからの日々を数えるだけです」

市長は明らかに気を張っていた。リュボームリからわずか50kmの地点にはベラルーシとの国境があり、ロシア軍がその地に大挙していた。もしもロシアがウクライナの補給路とヨーロッパへの退路を断とうとすれば、彼らはここに来る。私たちは彼の幸運を祈り、彼は温かく握手に応じてくれた。束の間、張り詰めた表情が崩れて笑みが浮かんだ。私たちはもう一度握手を交わした。

 

屋外にある3つの記念碑を通り過ぎる。ひとつはドンバスの英雄たちで、2014年にウクライナ東部でロシアが支援する分離主義者たちと戦った。もうひとつはウクライナ民族主義者たちで、1920年から30年代にかけての苦しい反政府活動*1赤軍と戦い命を落とした。最後のものは防空壕*2の屋根にあり、ソ連当局が大祖国戦争と呼ぶものを記念していた。第二次世界大戦のことだ。

 

落ち着きと緊張の双方の空気が入り混じっていた。幼稚園では布切れを漁網に結び付けて、偽装用のネットを拵えていた。福音派の教会では人々が受付ホールのペンキを塗り直し、家を失った難民を収容できるように部屋を改修していた。上階では、信徒たちが熱心に祈っていた。体を前後に揺らしながら、暗唱する唇が素早く動いていた。女性たちは跪き、両手を正面に合わせ、黒いベールに覆われた頭を垂らしていた。空っぽのレストランでは1ダースもの女性がパン生地を伸ばしており、大量のヴァレーニキ(じゃがいもの団子)を街の防御に携わるボランティアと兵士に提供するために働いていた。ある女性は「国を守るためにできることをやる、私たちなりの闘志です」と語った。それを聞いた他の女性たちから歓声が上がった。「ウクライナに栄光あれ!」

 

この辺りにはプリピャチ沼地がある。森と沼の境界、10万平方マイルにわたる小川と湿原、軍隊を飲み込むことで名高い、パルチザンの聖域、侵略者の墓場。ヒトラーの敗走軍はこの地で総崩れした。かつてのナポレオンと同じように。

分厚い埃に覆われた車が外に三台停まっていて、中には数家族がすし詰めになっていた。”DETI”(子供たち)という言葉が、後ろの窓にテープの大文字で書かれていた。車の持ち主たちは二日の時を掛け、ドニエプル川*3沿いにあるニーコポリ市から逃れてきたのだ。辺りにサイレンが鳴り響いた。誰も動こうとしない。

 

夜が明けた。街の外れで、オレンジ色の明りがバス停に灯る。往来する車は仮設のゲートで速度を落とし、地域の防衛団員が書類を調べて中を覗き込む。今やこの手の検問所は、ウクライナ全土の至るところに存在する。数日前にある男が教えてくれたが、防衛団は二丁のカラシニコフを載せた車を見つけたという。「我々には何の力もない」と彼は言った。「警察を呼んだよ」

 

ボランティアは地元の男たちだ。長距離ドライバー、機械工、歯科医院を複数所有する男、そして「ならず者が少々」。「あらゆる専門家が揃っている」と彼らの一人が冗談を飛ばした。火鉢を囲んで手を暖めながら、私たちにお茶とサーロ(豚肉の脂身)を勧めてくれた。「ピクルスと一緒に食べると美味いよ」と、一人が大きな瓶を開けながら言った。男たちはよくよく貯め込んでいた。瓶の中身は乾燥させたトマト、ソーセージサンドイッチ、ポテトの袋、リプトンの黄色い箱、クリスマスの残りのジンジャークッキー*4などなど。ティーポットを温めるストーブでは木が燃えていて、傍らには薪が積まれていた。検問所の猫が私たちの足元を行き来していた。

 

男たちの多くは30代から40代だった。多くは迷彩の下にスウェットを着ていた(ある二人組は作業着だった)。彼らに銃は支給されていないが、何人かは自前の武器を用意し、猟銃やカラシニコフを持参していた。ワシールは灰色のひげをたくわえ、緑の毛糸帽子をかぶり、背後にカラシニコフを立てかけていた。「年金暮らしの66歳だよ」と彼は言った。「みんなこの街の出身で、ここに集まったんだ」

 

イヴァンという別のボランティアの案内で、防空壕*5を見にいった。イヴァンはコンクリートブロックを積み、松の木で屋根で作っていた。彼はブロックの間に残された隙間を指し、そこから機関銃を北に向けて、進軍してくる敵を狙えるのだと示した。濠の周囲は土で盛られ、土台部分には土嚢が敷き詰められている。最上部にはウクライナの国旗がなびいていた。正面には溝が掘られていて、対戦車用スパイクチェーンと、火をつけるためのタイヤが置かれていた。

 

兵士の一人を除けば、誰にも何の軍隊経験もなかった。彼は迷彩にウクライナ軍の黄色い腕章を巻いていたが、何も喋りたがらなかった。部隊に供給された装備は簡素なものだ。双眼鏡が数個、ワインボトルで作られた火炎瓶の木箱、火炎瓶でロシアの戦車を無力化する方法を記したラミネート図。加えて兵員輸送車、トラック、戦車の図表もある。

 

正面には溝が掘られていて、対戦車用スパイクチェーンと、火をつけるためのタイヤが置かれていた。

歯科医院を所有する男が、食料の入った袋や毛布の山を整理していた。「我々の手で小さな検問所をここに作ったんです」と彼は言った。「ちゃんと整理して、良い状態にしておきます。我々がいかに国を築き、より良くするのかを知る明日が訪れるように」

 

車で少し北上すると、どこからか森が迫ってきて、闇と区別が付かなくなった。この辺りにはプリピャチ沼地がある。森と沼の境界、10万平方マイルにわたる小川と湿原、軍隊を飲み込むことで名高い、パルチザンの聖域、侵略者の墓場。ヒトラーの敗走軍はこの地で総崩れした。かつてのナポレオンと同じように。

 

私たちは少数の男が集まる道の傍らに車を停めた。ここは検問所ではなく、防御陣地である。過去数日の間に200人以上の男が急いで築いたもので、掘削装置が無かったために作業はシャベルで行われた。彼らは50メートルにもわたって深く掘られた塹壕を見せてくれた。松の幹で補強され、モミの枝で覆われた土の山で守られていた。道路沿いには浅い溝がずっと掘られていて、中には石油を満たしたポリタンクが置かれていた。数本の丸太の上にはコンクリートブロックが積まれ、転がすことで道路上の障害物になる。対戦車用のスパイクや燃やすためのタイヤも備えられていた。森の中にはさらに多くの塹壕がある、と彼らは言った。

 

38歳になるという男は、これまでは戦争に行く必要など考えたこともなかったという。「でも、平和を望むなら戦わなくちゃいけない」

 

ウェンデル・スティーブンソンはソ連崩壊後のジョージアイラク戦争エジプト革命を取材してきました。彼女は定期的に1843マガジンへウクライナより寄稿しています。以前の記事はここここから読めます。

 

☟原文☟(ソースには写真も載っています)

www.economist.com

 

*1:この時期のウクライナには様々な苦難の出来事があったようです。二度の大飢饉を経験した時代でもあり、後者は特にホロドモールと呼ばれます

ウクライナ民族主義者組織 - Wikipedia

*2:防空壕」は原文だと”bunker”となっており、調べたところ本来は「掩体壕」という訳を当てるようです。訳した人間はこの言葉を知らなかったので馴染みのある「防空壕」としましたが、間違っていたらごめんなさい。なお「シェルター」とも呼称されるようですが、その訳語も誤解を招くと思い採用しませんでした

*3:ドニエプル川ウクライナを東西に分断する大河です。地理的にとても重要な存在で、ウクライナが敗戦した場合(考えたくないことですが)、この川が戦後の国境になるという見方もあります。

ドニエプル川 - Wikipedia

*4:ヨーロッパではクリスマスに人型のジンジャークッキーを食べる風習があります。

ジンジャーブレッドマン - Wikipedia

*5:ここも原文は"bunker"(掩体壕)です